このままでは日本中の企業がブラック化する

人手不足がブラック企業を拡大させています。ロボットによる自動化は人手不足に追いついていません。特に業界的に自動化が難しく人手を頼りにしている企業はパートを募集してもよっぽど条件を良くしない限り、なかなか応募がありません。そのため、慢性的な人手不足が続き、連鎖的にそのしわよせが現場の社員に来て、パートの仕事を肩代わりすることによって、長時間残業となり、過重労働による健康障害が増加していきます。このままでは、過労死、過労自殺がますます増えるでしょう。

会社は、監督署の眼がうるさいので、36協定の範囲を超えて残業させないために、残業規制の指令を出す企業が少なくありません。
たとえば月30時間以上は残業しないよう自主規制を促したりします。
したがって、各社員またはリーダー格のパート社員は、月の残業時間が会社指示の時間を超えないよう残業時間帯の途中でタイムカードを打刻します。あとはお決まりのサービス残業(正式には「賃金不払残業」)となります。

この賃金不払い残業をさせている企業のほとんどは、会社側の責任者も確実に容認しています。その結果、タイムカード上は36協定の範囲内となっているため、労基法第32条違反(残業時間の協定超え)や同第37条違反(残業手当不払い)は認められませんが、賃金不払残業の時間を含めるとほとんどの場合が36協定の限度時間を大幅に超えて、過労死レベルの月80時間から100時間になっているケースが多く存在します。。

これが典型的なブラック企業の実態です。
私の知り合いにもこのようなブラック企業に勤務している人が多く(特にパートを多く使って人手を頼りにしているような企業)、希望に満ちて正社員として入社した会社が典型的なブラック企業(スーパー)だったため、入社1年後に体を壊す前に退職を決意した人がいました。

また、ある24時間稼働の食品工場では、パートを多くかかえている現場の若い社員が毎日午後8時から翌日の正午まで働かされ、途中の午前6時ころにタイムカードを打たされ、毎日5~6時間の賃金不払残業を強いられています。これは推定月140時間の残業となり、完全に労災の過労死認定基準を大幅に超えた残業時間になっています。逆にまだ過重労働で倒れていないほうが不思議なくらいです。

人は月45時間の残業時間を超えると超えた時間に比例して脳疾患、心臓疾患、精神疾患等が発症する確率が高まることが医学的に立証されています。そのため、厚生労働省では36協定は原則として月45時間を上限としており、この残業時間が80時間を超えると過重労働が原因で倒れた場合の労災認定基準に達し(ただし、発症前の2~6か月間の平均)、直前で月100時間を超えるとほぼ間違いなく労災認定基準となります。

さきほどの月140時間の残業時間については、この時間まで残業させ、長時間にわたる賃金不払残業を発生させて、過重労働で倒れたときは、仮に死ななかったり、あるいは後遺症が残るような障害にならなかったとしても所轄の労働基準監督署長は労働基準法違反容疑で司法事件として着手することを決定し、書類送検した日に悪質な企業としてプレス発表をすることになるでしょう。

今、紹介した企業は世の中では比較的知られた企業ですが、実態がブラック企業であることは世間の人にはほとんど知られていません。過重労働で倒れて事件となってマスコミに報道されない限り世間に知られることはないでしょう。事件として報道されたどこかの居酒屋や大手の広告会社のように。
しかし、一旦、ブラック企業として報道されると、そこには希望して入社する人は激減し、もはや優秀な人材を確保することはできないでしょう。つまり、労働者の労働力を搾取して企業が生き延びたとしても、誰かが過重労働で倒れれば、事件として公表され、世の中にブラック企業のお墨付きの烙印を押され、さらに人手が確保できなくなり倒産に追い込まれるでしょう。

この話は何もレアケースではなく、これからますます急速に進む少子高齢化によって、多くの業界が人手不足となり、残された従業員の過重労働はますます増加していくことは間違いありません。

その過重労働に耐えられず従業員が退職していけば、さらに残された従業員の負荷が増大し、過重労働による人手不足はまさに負のスパイララル現象を招くことになります。

この負のスパイラルを解消していくためには、RPA、AI、IT化等のデジタル化による業務の効率化、労働生産性の向上が急務であり、産業界や政府もこれに全力を投じて取り組まなくてはなりません。

RPAやAIが人間の職を奪うなどと悠長なことは言ってられない状況なのです。このままでは日本中の企業がブラック企業化するのは眼に見えている。

これは、もはや労働基準監督署の司法、是正勧告、指導、行政処分では解決できない問題です。

特に人手が足りない業界を優先して、RPAやAIによる業務の自動化を早急に実現させていかないと日本経済も立ち行かなくなるでしょう。

世の中をマクロで見ると、人手不足を解消しない限り、働き方改革は実現しません。RPAやAIによるロボット化は、将来企業で働く労働者の仕事を奪うかもしれないという心配よりも、現在労働者が働いている企業が倒産するかもしれないという心配のほうが優先される状況なのです。

4人麻雀感覚に限りなく近い3人麻雀の新ルールを公開

学生時代など友人と麻雀をやりたいと思ったときになかなか4人揃わないときがあったと思います。3人麻雀の一般的なルールは2~8の萬子(マンズ)と北を除いて行いますが、それだと役は限られるし、4人麻雀の感覚とはほど遠いルールなので、ちっとも面白くありません。そのようなときに3人でも4人麻雀に近い感覚でできる方法を発見し、楽しんでいました。

そのルールは極めて簡単です。ここで通常の3人麻雀と区別するために私が発明した3人麻雀を「新3人麻雀」と呼ぶことにします。まず、136枚の牌は4人麻雀と同じく全て使います(牌を抜くなんて邪道!)。
風については、北も入れて、サイコロなどで東が決まったら、南、西の順で座ります。したがって、最初の東場の時は、最初に東だった人は次から北、西となり、最初に南だった人は次から東、北となり、最初に西だった人は次から南、東となります。
4人麻雀では流局となったときに王牌(ワンパイ)として最後に場に14枚残しますが、4人麻雀の4人のうちの1人の手牌が13枚手元に残るので、新3人麻雀では余計な4人目の手牌分としてさらに14枚残し、合計28枚を王牌として場に残します。
よって、ツモの回数は4人麻雀では、東と南では70枚の牌を東西南北の順でツモるので、東南は18回、西北は17回ツモることになりますが、新3人麻雀では、69枚の牌を東南西の順にツモるので、3人が平等に23回ツモることになります。

このように4人麻雀ルールでは、東南になった人は西北になった人よりもツモの回数が1回多いので、明らかに不平等なルールであり、ゲームの平等性の観点からすると合理的なルールとなっていません。
したがって、合理的なルールに変えるには王牌を2枚減らすか、2枚増やせば4人のツモの回数は同じになります。何故、麻雀のルールを作った中国人が王牌を14枚残したのか未だに謎になっています。
普通ゲームは、あらかじめ使わない札を決めないでゲームの決着がつくまで全ての札を使うのが一般的です。麻雀も全ての牌を使うルールにする(ドラは始める前に何かの方法で決める。しかし、裏ドラなし)動きが一部にあるそうですがまだまだ世の中は従来のルールが一般的になっています。

新3人麻雀でも全てに牌を使うルールにしても良いと思いますが、現在の4人麻雀の感覚に近づけたいのであれば、28枚の王牌を残したほうがよいでしょう。ここで、新3人麻雀だと4人麻雀よりも5~6回多くツモるので、4人麻雀の感覚に反するじゃないかという声が聞こえてきそうですが、全員の場に捨てられる牌の数の合計は4人麻雀でも新3人麻雀でもほぼ同じであり、新3人麻雀は4人麻雀に比べてロン上がりが5~6回減り、その分ツモ上がりが増えるので、上がるまでの確率はほぼ同じのはずです。

次に上がりの点数ですが、通常の3人麻雀では4人麻雀と同じになるように調整していますが、新3人麻雀は4人麻雀のツモ上がりの点数を基準とします。
つまり、子どもで満貫で上がると子から2,000点、親から4,000点もられるので、合計6,000点(4人麻雀だと8,000点)。親で上がると子供から4,000点ずつもらい8,000点となります。同様に跳満だと子で9,000点(4人麻雀だと12,000点)、親で12,000点(4人麻雀だと18,000点)となります。したがって、満貫のロン上りは新3人麻雀だと子で6,000点、親で12,000点となります。また、平和(ピンフ)・ツモの上りでは、20符2飜で子の上りは子から400点、親から700点で1,100点となり、親の上りは700点オールで計1,400点となります。ロン上りも同じ点数です。
新3人麻雀はツモ上がりを基準としているので、4人麻雀制よりも1人分少ない割合の点数になります。新3人麻雀では上がりの点数が4人麻雀よりも多少デフレ化しますが、これが最も4人麻雀制に近い考えの点数になるのです。

以上で新3人麻雀のルールを説明しましたが、いかがでしたか。このルールを参考にして、これから麻雀をやるときにどうしても3人しか集まらなかったときの参考としてください。
また、この新ルールにこだわらず、皆さんで好きなようにアレンジして楽しんでください。

 

 

 

 

 

 

 

初心者向けジャズのアドリブ演奏の上達の近道

私は大学生のころモダンジャズ研究会でジャズピアノを弾いていました。
ジャズファンの方はいつごろからジャズを聴いているのでしょうか。ジャズを聴くようになるころって人さまざまだと思いますが、ジャズを普段聴かない人はジャズって難しいとか、聴いてもよくわからないとか言う人もいるかもしれません。私も中学生まではほとんどジャズを聴くことはありませんでした。たまにどこからか流れてくるポピュラージャズでテイク・ファイブなどは、聴いていて心地よくとてもイイ曲だなあと子供ながら思ってました。ジャズとの接触はその程度で、中学のころはポップス、フォーク、ビートルズなどポピュラーな和洋音楽を聴いていて、高校あたりからロックに傾聴しました。

私は好奇心が強い性格なので聞いているだけでは物足りなくなり、自分で演奏してみたいという衝動にかられて、エレキギターで外国の有名なロックギタリストのコピーをしたりして、ロックギターのアドリブテクニックを磨きました。
私が学生のころ一番尊敬していたロックギタリストはテン・イヤーズ・アフターのアルヴィン・リーでした。私は大概のロックギタリストのアドリブはほぼコピーできましたが、アルヴィン・リーだけは、他のギタリストにはない独特のアドリブラインを持っていてその速さやテクニックはなかなかまねできませんでした。

当時のハードロックはブルースをベースとしたハードブルース(ロックンロール)が主流でした。ブルースは12小節で基本的なコード進行もきっちりと決まっているため比較的ハードブルースをマスターするのはそれほど難しくはありません。

ほかの人はどのようにアドリブの訓練をしているのか知りませんが、私の場合、譜面は一切見ないで、耳でアドリブラインを覚えて楽器に再現するという方法でした。
オクターブ奏法で一世を風靡したウェス・モンゴメリーも楽譜が読めず、全て耳で覚えて一流のジャズギタリストになりました。

一通りロックギターのテクニックを自分なりにマスターしたところでロックのアドリブに少し物足りなさを感じるようになってから、次第にジャズの複雑で先が読めないアドリブに興味を持つようになり、ジャズに傾いていきました。

年齢とともに音楽の好みが変わっていくのは、やはり子供のころは大人よりも素直な性格なので、わかりやすくて、単純で、比較的簡単なコードで構成している曲を好む傾向があると思いますが、中学生や高校生あたりになると、少し自我に目覚めた自分をアピールするような音楽や世の中を批判的な眼で見るようになり反体制的な考えを主張したいという思いが加わってロックなどのハードな音楽に共感を覚えていくことが多くなるのではないかと思います。実際、私の場合そのような尖った感性でロックを好むようになりました。

しかし、年を重ねるにしたがって、次第に性格が丸くなり人はロックから最後は演歌に変わったり、私のようにジャズに変わっていく人が多いのではないでしょうか。もちろん高齢になるまでハードロックを貫き通す人もいるでしょうが…。

私は、高校3年のころ、本格的なジャズは聴いてもその良さがあまりわからなかったので、まず、ロックとジャズを融合したフュージョンやクロスオーバーから入っていきました。当時はジャズトランペッターのマイルス・デイビスがその先駆者であったため、よく聴き、日本ではジャズギタリストの渡辺香津美(教本も買いました)やナベサダなどを聴いていました。次第にジャズのアドリブに抵抗がなくなっていき、次のアドリブラインが予測できるようになっていきました。
私が最も尊敬するジャズギタリストはジョーパスです。彼は、ものすごいテクニシャンでアドリブラインも独特でなかなかマネのできない人でした。

私はジャズピアノにもたいへん興味があったので、ジャズギターの練習をしながら、ジャズピアノも練習していました。
ロックもジャズも共通してアドリブを上達させる近道は、まずブルースのアドリブをマスターすることです。
ロックもジャズも基本はブルースです。
ブルースが演奏できなければロックもジャズも演奏はできません。
おおざっぱに言うとブルースを8ビートにすればロックンロールやハードブルースになり、4ビートにすればジャズになります(たまにジャズで16ビートがありますが…。)。

ブルースにおけるロックとジャズの違いはリズムだけでなく、もう1つ重要な違いがあります。それはコードの種類です。もちろんベースとなるキーは同じですが、例えばロックなどはキーがCであれば単純にCコードを使うのではなく、7thコードなどを使いますが、ジャズだと9thコードや13thコードなどを普通に使います。
なぜならジャズという音楽は、常に緊張と緩和を交互に出していかないと陳腐な音楽に聞こえ、飽きてしまうからです。
だから、ジャズは不協和音をたくさん使います。安定した音階で癒されるような旋律に慣れてきた人には最初は違和感があると思うのでジャズの音楽がすんなりと入っていかないのではないかと思います。

子供のころは普通甘いものが好きで、ピーマンのような苦みがある野菜などは嫌いな子供が多いですが、大人になるにつれて、たとえばビールやピーマンのような苦みも旨味と感じて好きになることが多いと思います。
ジャズの不協和音は食べ物に例えると、この苦みに相当するのではないでしょうか。要するに大人になって初めてわかる味なのです。私にとって不協和音はもはやとても心地よく聞こえる和音です。まさにジャズの真骨頂ともいえるもので、これなくしてジャズは成り立ちません。

ブルースのジャスのアドリブをマスターできれば、ジャズ独特のアドリブ回しのこつがつかめるので、それからブルース以外のジャズにそのフレーズなどを取り込みながらジャズのアドリブを磨いていけば早く上達するはずです。

ブルースのいいところは、全員がお互いに初対面でジャズセッションをするときにブルースは基本的に誰でも演奏できるはずなのでキーさえ決めればすぐにブルースの演奏ができるというところです。

私は大学のころ、毎年1回自由が丘にあった「ニューファイブスポット」という日本で最も由緒あるジャズのライブハウス(来日した外国の一流ジャズミュージシャンの多くがそこで演奏していたところ)で7人のメンバーの中でピアノを担当していました。ギターでも良かったのですがそのグループには既にギター担当がいたのでピアノにしました。私の得意技は速弾きです。好きなジャンルはバップからフュージョンでした。作曲も10曲くらいしました。当時、モダンジャズ研究会のギター担当の先輩がNHK教育テレビのジャズ講座の講師をしていました。その先輩は大学卒業後プロになったみたいです。

大学を卒業して以来、セッションを組んだことはありませんが、たまにはしてみたいなあと思います。

脳は司令塔ではなかった。人体と組織社会のフラクタル構造

最近の医学研究の進歩は目覚ましいものがあり、かつて人体の司令塔は脳であるというのが定説となっていましたが、その考えは正しくないことがわかりました。
人体には約60兆個の細胞がありますが、外部からの刺激に反応して、いろいろな臓器の細胞が自らメッセンジャー物質(情報伝達物質)を発して、他の臓器や脳に伝達して、行動を起こさせるというネットワーク構造となっていることがわかりました。
たとえば、脂肪細胞は非常に重要なメッセンジャー物質を持っていて、食べ物を食べて満腹になると、小腸にある脂肪細胞が満腹になったという情報を伝えるメッセンジャー物質(レプチン)を発して、血管を通って脳の視床下部に達すると満腹中枢の細胞とレプチンが結びつき、食欲を抑えて満腹感を感じさせ食べるのをやめさせます。
見方をかえれば小腸の脂肪細胞が脳に指令してこれ以上食べるのをやめさせているとも言えます。
このようなやりとりは、臓器と脳との間で行われているだけではなく、脳を介さないで臓器と臓器の間でも血管を通ってメッセンジャー物質の伝達によってやりとりが行われています。

つまり、血管がネットワークとなり、臓器や細胞の中に存在しているメッセンジャー物質が血管を通って他の臓器や脳に伝達され、全ての臓器や細胞が一体となって人体をコントロールしています。

これを会社(人体)に例えると、ある部署(臓器)がある情報を入手したとき、その情報を他の全ての部署(臓器)と社長(脳)に伝え、他の部署(臓器)が影響を受けるものであれば、その部署(臓器)が緊急対応するとともに、社長(脳)が各臓器などにあらためて指令を出すようなものです。

考えてみると組織体と言うものは、皆似たような構造をしています。
国と地方自治体も基本的に地方で解決できるものは地方で処理し、国全体にわたるものは国が指令を出します。
世界(人体)も基本的には各国(臓器、細胞)がネットワーク(血管)で結んで貿易や情報(栄養素、メッセンジャー物質等)をやりとりしていますが、何か世界的な問題(温暖化問題、小氷河期到来問題、核問題等)が発生した場合は、解決に向けて国連や世界的な機関(脳)が協議・決定します。

これは数学的にいうと、この世の中に存在する組織体はフラクタル構造(入れ子構造)に近いものがあるのではないでしょうか。
フラクタル構造とは、簡単にいうと、例えば,樹木の枝,海岸線,積乱雲,肺や血管の構造、雪の結晶、株価の変動等、遠くから見ても近くから見ても同じ形に見える構造のことをいいます。

特に組織体を構成している各組織の数が多くなればなるほど全体を統制することが難しくなっていくので、ある程度は各組織の判断で決定して行動してもいいということになっていきます。

これを会社で例えると、小さな会社はワンマン社長が全ての社員の動きを掌握して具体的な指令を出すという場合が多いと思いますが、大企業は社長が全ての社員の行動を把握することは不可能なので、支店ごとの動きや部署ごとの動きまでを把握して会社全体の経営判断をしていくと思います。
つまり、大企業では組織体が大きくなっているので、日々の具体的な支店などの運営については支店に任せているというようなものです。

人体は約60兆の細胞から成り立っているので、脳はワンマン社長ではなく、大企業の社長となって、ネットワーク(血管)を通じて、日々の運営について任されている各支店長(各臓器)に全体的な指令あるいは特定の支店(臓器)に指令を出しているのです。

原発を廃止すべき理由

原子力発電所は火力発電所よりも半分程度のコストでエネルギー変換できるため、低コストでエネルギーを取得できるとして、経済の発展には欠かせないという政府や原子力関係者の言葉に騙されている国民はまだ多いのではないでしょうか。

この「低コスト」とは、目先だけのコストであって、最終的には処分等に莫大なコストがかかります。1つは原子力発電所の老朽化に伴う廃炉に係るコストです。この廃炉のノウハウさえ確立していない段階で核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)処理を含めて今後莫大な税金がつぎ込まれます。
また、稼働中においても常に核のゴミが出るので、原子力発電所の敷地内に核のゴミを置くスペースももはや限界に来ています。
原子力発電所が稼働し続ける限り、この核のゴミは無限大に向かって増え続けます。その核のゴミを無害なものに処理する方法は今のところ存在しません。
地中とかどこかに捨てるしかないのです。

政府は平成12年「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」を定め、地下300メートルより深く安定した地層に処分する「地層処分」を決めました。しかし、平成14年から原子力発電環境整備機構が行ってきた公募に対して、受け入れた自治体には多額の交付金を支給するという条件があるにもかかわれず、なかなか応募する自治体が現れません。
そこで政府は、平成27年、最終処分地に自治体が応募する方式から、国が地震や火山の影響を受けにくい複数の「科学的有望地」を示し、受け入れを打診する方式として選定を主導する形に転換しました。

しかし、外国人と比べて、日本人は国民気質として総論賛成、各論反対の民族なので、原子力発電所は賛成しても自分の地元を核のゴミ捨て場所にすることは絶対に許さない民族です。
したがってても、日本において、フィンランドやスェーデンのように地中とはいえ特定の場所を核のゴミ捨て場所にすることは今後も実現しないでしょう。

しかも日本は地震大国であり、地震の発生のおそれがないということで国が核のゴミの最終処分場として指定しても、阪神淡路などかつて地震のなかった地方でも大きな地震が発生している事実がある以上、100%大きな地震が発生しないという保証は今の科学技術レベルの段階ではどこにもないでしょう。

日本では今後も核のゴミの最終処分場の決定が期待できない以上、このまま無限大に向けて核のゴミを増やし続けることはまさに自殺行為です。
たとえていうと限られたスペースの中でどんどん有害なゴミが出続けているのに捨てる場所がないことがわかっていて、かつ、有害なゴミの原因を絶つ選択肢があるのに目先の利益にとらわれて、その原因をなくさないことと同じです。

この問題は日本だけではなく、世界的な問題であり、現在、世界では核のゴミの最終処理場(地中)を決めているのは2か国(フィンランドとスェーデン)だけです。

仮に、日本でも最終処分場が決定したとしてもゴミ処分にかかるコストや周辺住民への補償金、自治体への交付金、老朽化して廃炉にするときのコスト、また地震等で設備が破壊されたときのコスト等を考えると火力発電よりはるかにコストがかかります。また、そのようなコストを無視しても現在の水力発電で得られるコストより2倍かかります。

結論からいうと、原発そのものの危険性についての議論を別にしても、核のゴミが出ないような処理技術が発明されない限り、原発は永久に稼働させるべきではありません。もし、その処理技術が科学的に不可能であることが証明されたのであれば原発は全てなくすべきです。このままだと地球自体が無制限に汚染されていき、いつか自然からの仕打ちが来るでしょう。

また、原発の稼働そのものについても、現在の地震学のレベルや日本の陸地の構造は大地震発生が避けられない構造となっており、日本のどこにおいても大地震が発生する可能性がある以上、そんな地震大国に原発を設置するのは自殺行為です。

原発を残したいという人間の心理としては、せっかく科学の最先端の技術を駆使して発明されたものだし、リアルタイムでは火力発電よりも低コストで得られるエネルギーを使うほうが今の日本経済を良くする可能性があるという理由が多いと思われますが、そういう人は日本や世界の未来像を考えたことがあるのでしょうか。
原発はリアルタイムでは確かに他のエネルギーよりは比較的コスト安ですが、長い目でトータルで計算すると原発は高コストなのです。

ドイツでは、7年前に福島原発が地震でメルトダウンした事故を知ってから、すぐに全ての原発を廃止し、太陽エネルギーや火力発電などに切り替えることを決定しました。リアルタイムではまだ原発よりもコスト高になっているそうですが、その決断はさすがドイツ人だと敬服します。

原発の被害をまだ受けていない外国でさえ将来のとりかえしがつかないリスクを予想してすぐに原発を廃止したのに、取り返しがつかない原発事故を発生させた地震大国の日本がこれからも原発を稼働させていく方針をとっているのは異常な国であると言わざるを得ません。
これはやはり国の将来の安全よりも目先の大きな利権が原発の撤廃を阻止しているとしか思えません。

日本人は職人気質のところがあって手間暇かけて長い間続けてきたことを廃止して(あるいは変えて)、何か新しいことに変革することがなかなかできない国民だと思いますが、将来取り返しがつかないときを迎える前に今決断をすべきです。

一生に一度は絶対に行く価値のある秘境

私は若いころは全国のいろいろなところに旅行しました。その中でも最も感銘を受けたのは迷いなく知床にある「カムイワッカの湯の滝」と言えます。
私は若いころ友人数人と東京から車で夏場に2回ほどカムイワッカの湯の滝に行きました。
そこに行くには舗装されていない長く狭い道を車で行くしかなく、駐車できるスペースもあまりないため、大勢の観光客が来るようなところではありませんでした。
しかし、今は有名になってしまったので知床自然センターからシャトルバスが出ているそうです。また、観光客がにぎわう8月1日から8月25日の間はマイカー規制があって車とバイクの乗り入れは出来ないそうです。
完全な秘境に近く、人間の手がほとんど加わっていないところです。したがってトイレもありません。

当時はまだ世の中にあまり知られていなかった秘境で、そこは大量の温泉が湧き出て渓流となっています。渓流の底は岩場となっていて、渓流の深さは浅いところで足首当たり、深いところで膝くらいまでです。渓流は酸性度の強い温泉なので生物は住んでいないそうです。

その渓流の中に入って岩場を登っていきます。渓流の温度はちょうどぬるい温泉の温度なので、とても気持ちがよく大自然の中を沢登りする体験は一生に一度味わう価値があります。
途中で岩場をロープを伝ってよじ登ったりしなければならないところも確かあったと思うので小さな子供や老人は危険かもしれません。

その渓流をしばらく登っていくと滝と滝つぼがあるところに到達します。
そこで当時は裸になって滝つぼの温泉に入りました。滝つぼは1つだけで、男女用に分かれていないため、当時は、滝つぼの端に男女ごとに見張りを立てて、男女交替で素っ裸で滝つぼに入ったと記憶しています。
しかし、2回目に訪れたときは、既に有名になっていたので、滝つぼには男女混浴で水着で入っていました。

滝つぼの温泉の色は普通の温泉では見たこともないあざやかなエメラルドグリーンの色をしていました。
滝つぼの深さは腰から胸のあたりだっと思います。
私は好奇心が強い性格なので、そのすばらしいエメラルドグリーンの温泉を飲んでみたくなりました。
当時はまさにあまり知られていない秘境なのでその温泉を飲めるのかどうか一切表示などされていないので飲んでいる人は一人も見かけませんでした。しかも生物が住めないような強酸性の温泉なので飲んではいけなかったのかもしれませんが私は思い立ったら何の躊躇もなく少し味わってみました。

私はその味にびっくりしました。
まさに酸っぱいレモネードの味でした。

これは信じられないかもしれませんが、カムイワッカの湯の滝の温泉をそのまま喫茶店に出しても何の違和感もなく飲んでしまうほどおいしい味でした。私はもともと酸っぱい味が大好き(たとえば、バナナもまだ甘くなる前のすっぱ味が残っている若いバナナが好きだし、イチゴやかんきつ類も酸っぱいものが好き)なので余計に感動しました。

その温泉を飲んでいいのかどうか未だにわかりませんが、その後健康上何も変わらないので飲んでも大丈夫だと思います(ただし、大量には飲まない方が無難だと思います)。

また、滝つぼのところの滝の脇の岩場をロッククライミングしている若い男がいましたが、途中で墜落しました。幸い奇跡的に大けがには至らなかったようでした。当時は滝のロッククライミングをする命知らずの者が何人かいましたが、そのような危険なことは絶対にやめましょう。

この世界でも奇跡と言えるカムイワッカの温泉は一生に一度は人生の思い出として、沢登りできなくなるほどの老齢になる前に絶対に行く価値はあります。

知床は世界遺産になっていますが、このカムイワッカの湯の滝はその世界遺産の中の世界遺産だと思います。

AIの最大の構造的弱点とは

2045年は「シンギュラリティ」と言ってAI(人工知能)が人間の知能を超える年と言われています。しかし、AIには残念ながらまだ人間を超えられない致命的な弱点があります。AIの得意な点は、膨大な情報(ビッグデータ)の中から従来の経験値に照らして最良の選択肢を瞬時に(あるいは相当短時間に)決定できることや経験がなくてもAIが自ら学習(ディープラーニング)して短時間で経験を積むことができるという点です。

たとえば、AIが世界のトップレベルの囲碁のプロに勝ちましたが、これは囲碁のルールを教えることなしに過去の数千万回の囲碁の対局のプロセスを記憶させて、AI同士で対戦させて経験を積ませ、ルールや戦術を学習し、進化していった結果、人間を超えることができたのです。

つまり、これはどういうことかと言うと、あらかじめ完璧な戦術や理論を覚えこませたわけでなく、人間が長い年月をかけて経験を積んで覚えた戦術を短時間に覚えて強くなるのです。

したがって、AIを人間に例えると、人間が過去の膨大な経験によって蓄積したデータを全て記憶し、戦局の状況にしたがって過去のデータと照合させて次の一手を選択するようなものです。ある意味極めて人間的であり、人間の思考回路に似たアナログなスーパーロボットのようなものです。

そこには論理的な思考回路というものはありません。全て、ビッグデータに基いて統計的、確率的に判断しているのです。
したがって、データが少なかったり、経験のない(類似のデータがない)状況に直面したときにAIが判断することは難しいでしょう。
また、プロセスにいろいろな選択肢がある場合、必ずしも100%正しい答えが出てくるとは限りません。

AIの囲碁でもプロ棋士では絶対に打たない素人のような手を打ったとしても何故そのような手をAIが打ったのか人間は解説できません。AIも膨大なデータからベストな手を選択しただけであって、AI自身も何故その手を打ったのか説明はできないのです。
したがって、今のAIではプロ棋士の対局を論理的に解説することは難しいでしょう。

ここでもうAIの弱点はおわかりになったと思いますが、いくつかの判断要素が必要な思考パターンにおいては、従来人間が判断していた過去の多くの経験のビッグデータをもとにベストな答えを選択することしかできないので、100%の論理的思考によって正解を導くことができないということです。

よって、100%正しい答えを求める問題についてはAIは不向きです。
ファジィな判断要素が入らないプロセスであれば、AIよりもRPA(Robotic process automation)のほうが得意であり、100%の正解が期待できるでしょう。しかし、RPAは人間の知能を超えることはできません。
なぜなら、RPAは人間が行うパソコン上の操作をそのまま認識して、自分で短時間に人間の操作を再現するだけなので、人間の操作を超えてRPAの判断でパソコンを操作することはできないからです。

したがって、物理や数学の難解な問題を解くことについては、過去の膨大な経験値からベストな答えを導くものではないのでAIには難しいでしょう。これが可能となれば将来AIがノーベル物理学賞やフィールズ賞がもらえる時代が来るかもしれません。

人間の強みは、想像力、仮説力です。

新しい発見をする場合は、ある仮説を立ててみて、その仮説によって実際の観測結果が説明できることが少なくありません。

これは、まだAIは人間にかないません。この人間特有の論理的思考から生み出される想像力、ひらめき、インスピレーションのような思考回路は、AIは不得意です。AIが絵を描いたり、小説を書いたりするのも最初は人間がAIにきっかけを与える必要があります。2045年のシンギュラリティの時は、AIはこの課題をクリアしなければ人間を超えることはできないでしょう。

シンギュラリティが実現するためには、AIがビッグデータに頼らなくても論理的に思考でき、仮説を立てられる能力を取得することが必要でしょう。

 

働き方改革を進めるにはRPAの導入が必須

日本は先進国の中では労働者一人当たりの労働生産性が非常に低い状況にあり、一人当たりの年間実労働時間は毎年少しずつ減って1700時間台になっていますが、これはパートなど非正規労働者の割合が増えていることが主な原因で、正規社員についてはこの20年間は年間2000時間くらいでほとんど減っていません。
政府は、長年低迷している個人消費を伸ばすことを目的の1つとして「働き方改革」を重点政策として積極的に取り組んでいます。
しかし、ホワイトカラーなど事務系の仕事については、なかなか業務の効率化が進まず、その結果労働生産性が向上していないのが現実です。
そのような社会の中で、相変わらず日本特有の現象である「過労死」や「過労自殺」が後を絶ちません。

ところが、2016年後半あたりから、労働生産性向上・業務効率化の画期的なツールが注目され始めました。

それが、「RPA」(Robotic Process Automation)です。

これは、簡単に言うと、ソフトを使って人間の判断要素が入らないパソコン上の単純な人間の入力操作や定型的な人間の入力操作をソフトが自動的に読み込んで、その後ソフトが自動的に人間の作業に替わって仕事をすることをいいます。

日本でも2017年から金融機関や大企業を中心として本格的な導入が急ピッチで行われています。

たとえば、ある生命保険会社は16業務にRPAを導入して5年間で1億4000万円のコスト削減ができると試算しています。
また、ある大手の商社では、年間130時間を要した作業がRPAの導入によって年間30時間で完了できるようになり、多発していた入力ミスも激減しました。

ただし、RPAは汎用型AIロボットのように人間に替わって判断をしながら仕事をすることはできないので、RPAにやってもらいたい一連の仕事の中に人間の判断要素が含まれている場合は、そこで作業がストップします。
したがって、RPAをうまく使いこなすためには、人間が判断して行うパーツを除いて、人間の判断を要しないパーツのみRPAに操作を記憶させるという人間とRPAを複合した「ハイブリッド型」の作業を進めればよいでしょう。

10~20年先には、日本の労働人口の49%はAIが人間に替わって仕事をすることが可能であると発表されています(野村総合研究所)。この波はもはや止めることはできません。なぜなら将来AIを導入しなければ、導入した同業者に負けて生き残れなくなるからです。

しかし、一部の大企業は別として、一般的な企業ではいきなりAIを導入することは、長い期間と多額の資金が必要なのですぐにはAIを導入することはなく、その前の段階として、数日から数週間で導入でき、しかも安価(一般的に年間数十万~数百万)なRPAから導入し、その後人間の判断を要する作業についてAIを導入していくという流れになるでしょう。

また、これからは少子化が進むことによって人手不足がますます深刻な時代を迎えます。人手が足りない分、限られた時間の中で多くの仕事をしていかなければならないので、このままでは過重労働はなかなか減らないことになります。
したがって、人手不足の解消や過重労働防止対策のツールとして、RPAの導入は避けて通れない時代となるでしょう。

私が今働いている職場は30人程度の職場ですが、2018年度からRPAを導入しようと考えています。
導入した暁には、そのノウハウなどをこのブログでお知らせしたいと思います。

笑いの構造

人間は何故笑うのでしょうか。
人間以外の動物は決して笑うことはありません(笑って見えるような場合もありますが)。
犬でも喜び、悲しみ、うれしさ、怒りなどの感情表現はしますが笑う感情はありません。笑いは人間独特の高度な生物特有の性質です。
人間は、普段の自分の身の回りの出来事と違う出来事で、かつ想定外の出来事を見聞きしたときに一瞬驚きの感情が沸きます。
「アレッ!おかしいな?どうしてだろう?」という考えが一瞬に脳をめぐり緊張感が走ります。
そしてすぐそのあとにオチが来て、「ああそうだったのかー」とほっとした気分になり、緊張が解けて頬が緩み笑いになるのです。

笑いの構造は4コマ漫画と同じく起承転結が基本
起   話の始まり
承   話の展開
転   話が急転→アレッ?と思わせる→一瞬緊張する
結   話のオチ→そうだったのか→結末に納得し緊張がほぐれ笑いとなる。

ここで漫才であればボケの後に相方がツッコミを入れます。ツッコミを入れることによってボケが引き立ちます。
ボケたままで終わってしまうと一瞬ボケた意味がわからず間が空いてしまい一瞬緊張感が走りますが、すぐにツッコミが入ることによって、ボケた意味がすぐに理解し、ホッとして気が緩み、ツッコんだ相方と共感が生まれ、ボケの普通でない言動や行動に興奮を覚え笑いとなります。

人間は普通でないことに対して不安を感じますが、話のオチやツッコミによって納得感が生まれ、その興奮状態を発散するため笑いが生じるのだと思います。

したがって、笑いを取りたいのであれば、普通の話の流れでは緊張する場面がないことから絶対に笑いは発生しませんので、「起承転結」の「転」のところで必ず普通でない状況を作り出す必要があります。
そして、次の「結」のところで、「転」とのギャップが大きければ大きいほど驚きも大きくなるので笑いも大きくなります。

たとえば、「起」として、ある通りで後ろ姿が髪型、髪のつや、ファッション、ミニスカートから出たスリムな脚、ハイヒール、歩く姿勢などから、およそ年齢が20歳代の美人を想像できるような女性が歩いていたとします。
次に「承」として、その後ろ姿を後ろから歩いていた30歳代の独身男性が一目ぼれして、声をかけてみようと決心します(いわゆるナンパ)。
次に「転」として、声をかけて振り向いた女性は何と見た目が70歳代の高齢者でした(実際に私も顔だけ見なければどう見ても20歳代に見えるご高齢の女性を何度か見かけたことがあります。)。ただ、ここまでで話が終わるとただの驚きで終わってしまい、見た目の年齢とファッションのギャップに驚くだけで多少の笑いが取れるだけだと思います。
最後に「結」として、ドン引きした男性がどういうふうにナンパを解消するか困っている姿に声をかけられた女性が積極的にナンパを受け入れようとするシチュエイションを表現すれば、その「想定外」の状況に笑いが生まれるのです。

この「笑い」とは違って「微笑ましい」、「嬉しい」という状況があります。
しかし、これは「笑い」とは心理的に異なるものです。たとえば、かわいい子犬や子猫を見て「かわいい」と感じて思わず微笑んでしまうのは面白くて笑うわけではありませんよね。これは、嬉しいときや喜びを感じるときに微笑となって表れるものです。この喜びの表現は人間独自のものではなく犬でも嬉しいときなどはシッポを振って喜びを表現します。

以上、笑う条件としては、笑う直前に「驚き」や「意外性」の状況が必要条件となるでしょう。普通の話の流れだけでは決して笑いは生まれません。
笑いネタを作るってたいへんですね。漫才やギャグ漫画のネタ作りに敬意を表します。

「飽きること」との闘い

人間は何かに熱中していてもやがて飽きる時期がやってきます。
人間は同じ刺激が与え続けられるとその刺激に慣れてしまって、さらに強い刺激がなければ次第に反応が鈍くなっていきます。
うちにはベルという9歳のオスのトイプーを飼っていますが、たまにぬいぐるみに夢中になって遊びますがすぐに飽きて見向きもしなくなります。
人間も犬と同じく、いったん何かに興味や好奇心が沸くとその好奇心を満たすための一種の精神的な飢餓状態になりますがその飢餓状態が満たされれば好奇心はなくなります。
これは食欲と同じです。飢餓状態でごちそうを目の前にしたときは早く食べたいと思うでしょうが、満腹になったとたんにごちそうは目に入らなくなります。

しかし、食欲と好奇心の違いは、食欲は時間が経てば再び空腹となるので繰り返し食欲がやってきますが、好奇心は普通はそれが満たされれば再び同じ好奇心がまたやってくることはありません。
何故なら、その好奇心は1度経験して結果がわかっているので「もう1度知りたい」という欲求が生まれてこないからです。

しかし、たとえば自分が好きな趣味などは繰り返しても同じような快感(ドーパミンが出る状態)が得られることがわかっているので繰り返し行っても飽きるということはあまりありません。

商売は「消費者の飽きとの闘い」
商売も同じです。
ゲームや音楽が流行ったとしてもやがて飽きられますので別のゲームや音楽をリリースし続けていかないと事業は継続しません。
「飽きる」という人間の本能は、経営者にとっては生死にかかわる非常にやっかいなもので、日々商品開発の努力をしていかなければ生き残れません。

しかし、マクロ的に世の中を見ると、「飽きる」からこそ、次の新たな商品が生まれ、進化を遂げていくことになります。つまり、文化や文明の発達は、この「飽きる」現象があるために、より飽きないものを作り続けていく原動力が生まれてきたのだと思います。しかし、人間個人にとっても「飽きる」ことは、いろいろな障害になることが多いのが現実です。いわゆる「三日坊主」もその類になりますが、何かの目的をもって何かを始めるときに3日で飽きてしまい、それ以上続けることができない状態をいいます。
この3日を乗り切るためには、相当のモチベーションや継続するための工夫が必要となります。

「生きる意味」とは
また、よく定年後に自分はこれといった趣味もなく、1日中何もすることがなく、ときどきテレビを見るくらいで毎日が終わってしまうので生きている意味があるのだろうかと悩む方がいるかと思います。

よく、サラリーマン時代に家庭を顧みず、バリバリの仕事人間だった人が定年になって会社を辞めて気が付いたら何もすることがなくなったと燃え尽き症候群になる場合があります。
何もすることがないので生きている意味がないという理由で誰にも迷惑をかけないで死ぬことは自由ですが、この「生きる意味」というものは、もともと人間を含めて生物には存在しません。

人間(生物)は現象的に生まれ、現象的に死にます。何も意味があって生まれたわけではありません。それはある男女が運命的に出会って愛を誓い、子供を授かって子孫を残していくという美しい人間像、社会像を描くことはできますが、それも生物学的には生物の本能がそうさせているのです。

私もこのブログを読んでいるあなたも自分の意思でこの世に生まれたわけではなく、人の手によって誕生させられたわけです。しかし、両親は子どもが自然に死を迎えるまでは自ら命を絶つことは望まないでしょう。つまり、両親は子供に対して意味ある生き方を望んでいるわけではなく、不自由なく生きていることだけで十分なのです。
そもそも平穏、平凡に生きていくこと自体が難しい時代になっています。かつて国民は皆中流家庭の意識を持っていましたが、いまや時代とともに富裕層と貧困層に2極化しています。これからの貧困層は結婚して2人の子供を設け、家を持つというかつての人並みの生活を維持していくことがだんだんと難しくなっているのではないでしょうか。このままでは少子化がますます深刻となり国は衰退していくでしょう。

話が少し逸れましたので、少し元の話に戻しますが、「生きる意味」は特に絶対的には存在しません。生きることに意味を持たせるのはそれぞれ個人が決めることです。「このように生きるべきだ」と説教することも意味がありません。価値観は人それぞれだからです(ただし、人に迷惑をかけるなど社会的秩序を守らないことは別です)。自分が思う価値観について人に共感を求めることは自由ですが、人に強制することはできません。

退屈感を解消するには
「何をしてもすぐ飽きてしまう。退屈で退屈で死にそうだ。これから何を楽しみに生きていけばいいのだろう。」と思う方は一種の贅沢病(退屈病)なのいかもしれません。生き続けていくこと自体がたいへんな時代に一生懸命生きている人にとって、何もすることがなくて退屈だと感じる時間や心の余裕はありません。悪く言うと「貧乏暇なし」です。

かつて人類は狩猟の時代で日々生きていくことが精いっぱいの時代から少し時間のゆとりができて、いろいろと考える時間ができたおかげで科学が発達し、文明が栄えてきました。したがって、毎月100時間以上残業をさせるような会社は現場においてアイデアが生まれる余裕がなく会社は発展しないでしょう。

しかし、日々たいへん仕事で忙しい人でも休日は好きなことができるのであれば、さきほどの退屈病は誰でも起こりうることです。この感覚は、退屈であることが苦痛に感じる人と休日に1日ボーッとして過ごしても何も苦痛を感じない人もいるため、一概に退屈病が非難される筋合いは全くありません。
たとえば、小さな水槽の中で泳いでいる金魚やメダカは何が楽しみで生きているのだろうと思うと生きている意味がわからなくなります。人間から見て退屈そうの見えても金魚やメダカには全く退屈感がないのだろうと思います。
うちのベルも1日中寝ているかエサを食べているかのどちらかです。

退屈感を紛らわしたいのであれば何か1つ趣味を持つことが1番でしょう。

すぐ飽きてしまうことについては、そこまでのモチベーションしかなかったということですぐに目的をあきらめるか、モチベーションを奮起させて継続力を高めるしかないでしょうね。