将来どんな仕事をしたらいいのか悩んでいる方へ

先日テレビで日本で飛び級第1号として高校2年から大学に入学した人のその後の人生について紹介していた番組があった。千葉大学で光の物性の研究をしていて大学院で知り合った女性と結婚し、すぐに子供を授かった。その人はそのまま大学に残って研究職として働いていたが、何年働いても月20万程度しか収入を得ることが出来ず、家族を養っていくことが厳しかったため、自分の研究をあきらめ、収入のよいトレーラーの運転手に転職した。
大学院を卒業しても年収が300万円程度しか得られないいわゆる高学歴プアの人が大学院卒の人のうち約半数いるらしい。

このような研究に限らず、どのようなことでも自分の好きなことをずっと続けながら生活を維持していくことはたいへんなことだ。

毎日好きなことをして裕福に暮らせている人はごく一部の限られた人である。

人間は一般的に学校を卒業すれば働かなくては生きていけない。

好きなことを仕事にすることができれば理想的だが、なかなか理想どおりにはいかない。また、趣味で好きなことをやっているときは楽しかったが、それが仕事となった途端に楽しくなくなるケースもある。

外国人、特に西洋人は仕事は生きがいというよりも生活の糧として自分が好きな時間、好きなことをやるために働くという意識がベースとなっている人が多い。

日本人は、生きがいのある仕事をしたいという人が多い。それは悪いことではないが、よく仕事が趣味という人で定年退職するまでほかに趣味を持たず、家族との楽しい時間も作らず、会社に滅私奉公し、場合によっては過労死するまで働き、やっと定年退職して会社の呪縛から解放されても何もすることがなく、急速に老化して認知症となるケースがある。

このような人生は決して理想的な人生とは言えないだろうが、本人が仕事が面白くて家族や自分の生活を犠牲にしてでも後悔しないということであればそれはそれで別に非難される筋合いではない。

逆に生きがいを持てないような仕事を一生続けなければならないほうが苦痛であろう。

働くということは需要と供給の結果である。仕事に貴賤はない。相手のために何かの行動を起こしたことによって、その報酬を相手からもらえることになれば相手には役に立ったことになるので、その行動が違法な行為でない限りどのような行動であってもそれによって誰かが役に立てばそれは仕事なのである。役に立つということはまさに需要と供給の関係であり、需要が多ければ多いほど供給できる人にとって、収入が増える(サラリーマンであればボーナスアップなど)。

企業活動はまさに需要と供給の関係で成り立っている。それがたとえ人の命を救うのに役立つ仕事でも人の快楽のために役立つ仕事でも需要という意味で価値は同じである。

自分の趣味、好きなことに対して、何らかの形で人に供給し、需要があれば仕事として成り立つ。
しかし、好きなことと才能は別である。いくら好きなことでも才能がなければ仕事にすることは難しいだろう。好きなことなので、努力をすれば能力が向上してニーズが高まるかもしれないが、ある程度のレベルの才能まで達しなければほかの仕事を選択したほうがいいだろう。要するにプロレベルの能力まで達しているかどうかだ。そうでなければニーズは上がらない。

仕事でも嫌いな仕事は決してモチベーションが上がることは期待できないので、適用性は乏しいだろう。好きな仕事でなくとも少しでも興味のある仕事であれば、モチベーションが上がる可能性があるので、スキルアップにつながり、適応していくことが期待される。
仕事への適応能力は個人差があって、人には向く仕事と向かない仕事がある。自分で努力してもなかなか適応できない仕事はやめたほうがいい。

いくら稼ぐことだけが目的で仕事に就いても適応できなければ決して続けることはできないだろう。

私は最終的には公務員の道を選んだ。私の場合、子供のころから好奇心が強い性格で将来は漫画家、イラストレーター、囲碁のプロ棋士、ジャズギタリスト、ジャズピアニスト、大脳生理学者、天文学者、物理学者などになることを漠然と考えていたが、皆趣味が高じてハマったものなので、仕事とは別に趣味でやっていくこととして、そのために当時は民間会社の内定を辞退して残業が少ないと言われていた公務員の道を選んだ。しかし、その後、国家公務員は仕事が増える一方だが人は減らされる一方なので年々残業が増える一方になった。
国家公務員試験に合格するとは思っていなかったので不合格であればそのまま内定していた会社に入っていたが、たまたま運よく合格したので迷わず公務員の道を選んだ。もう1つの理由は特定の民間会社に勤めて一部の人間の役に立つよりもできるだけ多くの人間に役立つ仕事をしたかったからだ。

公務員となってからも物理の研究は休みの日などでときどき続けていた。この数年間に数学を含めて新たな物理の法則を発見してきたが、これも突然閃いたわけではなく、今までの長年の研究の積み重ねの結果、生み出されたものだと思う。

しかし、新しい発見をしたとしても、もともとその研究を職業としていないために世の中に認められることは難しいだろう。趣味で研究している理論がそれを職業としている研究者が認めるということは、その道の権威ある研究者にとっては屈辱的なことあるいは職を失うことになるかもしれないからである。

天動説が当たり前のころは、地動説を唱えた研究者が火あぶりの刑に処せられ、ガリレオも、処刑は免れたが長い間牢獄にぶち込まれた。

昔は新しい理論を打ち出すことは命がけのことだったが、今では打ち出しても誰にも共感が得られなければ、単に世の中から無視されて永久に埋没されるだけで命までは取られない。

しかし、ほかの惑星で人間よりも高度な知能を持った生物がこの事実を仮に知ったとしたら、地球の知的生物は大した知能は持っていないと判断するだろう。

話が少し逸れてしまったが、職業の選択については、偶然性もあるが、好きなことや趣味を仕事にできることが最も理想的だと思うが、たとえそれが難しくても日頃から趣味で続けていくと人生は楽しめるし、それが高じてプロ並みの能力を発揮して仕事に結びつくことになる可能性もあるので、仕事と趣味を切り離して仕事は仕事、趣味は趣味として割り切って生きる人生も大いにアリだ。

宇宙の構造の解明

私はプロフィールにも記載したとおり、趣味で理論物理や数学を研究しています。7年ほど前に「複素ベクトルと三元数」というタイトルの本を自主出版し、それは今でも大きな書店には置いていただいています。従来、複素数の概念は2次元(実数と虚数)しかありませんでしたが、幾何学的3次元の虚数が存在することを発見し、複素ベクトル空間の任意の位置において、微分や速度、加速度の計算等数学や物理など広範囲に応用できるものであり、併せて多くの公式を発見しました。

たとえば、同じ数を掛けてー1になる数(虚数)は1つしかないことになっていますが、回転を行列で表わす(1を90度回転させると虚数(i)になる)と虚数は無数に存在することが分かり、その虚数の一般式を発見しました。これを私は「楕円虚数」と命名しています。

これらの様々な発見のおかげで、「3次元空間におけるグリーンの定理」についても私の発見がなければ2次元の世界までで数学の歴史は止まったままになっていたはずです。これはまだ正式に世の中に認められた定理ではないので断言はできませんが2次元の定理を受け継いだ非常に美しい数式になっていて私は絶対に正しいという自信があります。世の中はいつ気づいてくれるんでしょうね。

私は大学で物理学科に所属していたことからもわかるように、もともと宇宙の構造や素粒子の構造などに興味があったので、昔から理論物理の研究を趣味で行っていたところ、たまたま満員の通勤電車の中で物理に関する思考実験をしていたときに、第2の虚数が閃いたので、しばらくは数学の研究をしていたわけです。

しかし、趣味の本業は数学ではなく、物理学なので、物理学の分野においても多くの法則を発見しております。それらをまとめて1冊の電子書籍で出版するために執筆していましたが、仕事が忙しくてなかなか執筆モードになれないときが多かったので、全部まとめるには今後も相当な時間を要すると思い、いくつかの発見ごとに分けて出版していくことにしました。

まず、最初に宇宙の構造に関する発見について5月12日に、amazon  kindleストアから電子書籍として「宇宙空間の新しい構造」というタイトルで出版しました(定価250円。kindle Unlimitedなら無料)。
この本の内容はビッグバン宇宙論を否定する根拠を書いたもので、決定的な証拠としては、宇宙空間の構造として私が予測した数式にNASAで公開している多くの銀河のデータを代入するとそのグラフがきれいな直線状に並び、予測した数式に含まれる定数が導き出されたという事実です。
その定数は148億年と出ました。

この結果、銀河光線の赤方偏移の原因が宇宙空間の膨張によってすべての銀河が遠ざかっているからではなく、また、宇宙背景放射の存在理由が138億年前に宇宙が誕生して138億年間にわたる宇宙空間の膨張によって光の波長が伸びたとする必要性がなくなりました。
のであったと仮定した場合に夜空の明るさが無限大になるという矛盾(オルバースのパラドックス)及び全宇宙に存在する銀河から受ける重力が無限大になってしまうという矛盾(ゼーリガーのパラドックス)も私が予測した数式によっていずれも無限大が解消されることがわかりました。

以上のことを主たる証拠として、ビッグバン宇宙論の多くの矛盾点を指摘し、ビッグバン宇宙論は間違っていることを証明した本です。

宇宙には果てがあるのか、宇宙には始まりはあるのか、ビッグバン宇宙って本当に正しいのかなどの疑問や興味のある方は是非読んでみてください。
下の「宇宙空間の新しい構造」をクリックしていただければkindleストアにリンクして購入することができます。

宇宙空間の新しい構造

宇宙空間の新しい構造: ~反ビッグバン宇宙論~

 

複素ベクトルと三元数

複素ベクトルと三元数

世の中に3次元以外の幾何的次元は実在しない

皆さんがよくご存じの幾何的な「次元」の定義は、0次元が「点」、1次元が「線」、2次元が「面」、3次元が「立体」を表します。
ところが、正確に言うと3次元以外はこの世には実在しません。
まず、「点」ですが、点とは普通、芯の尖った鉛筆の先を紙に突いた印をイメージすると思いますが、その印は小さいながらも大きさがあります。点の定義は大きさがなく、位置だけが示されたものです。仮に点には最低限の大きさがあったとすれば、理屈上さらにそれを分割することが可能になるので、数学的に最小の長さというものはないのです。つまり、点は数学的な概念であって、実在するものではありません。

ちなみに量子力学的には電子は理論上大きさがない点として取り扱われており、また、量子力学的最小単位の長さはプランク定数と呼ばれ、その長さは1.616×10^-35ととてつもなく短い長さとなっています。
したがって、物理的にはこれ以上分割はできないのかもしれませんが、どんなに小さくとも大きさがある以上は、さらにその大きさの中心のような位置があることが予想されるため、数学的な「点」の定義から外れます。
電子の大きさは実験上はある大きさ以下であることはわかっていますが、まだ正確な大きさは発見されていません。電子は大きさがなく点と見なしているのは、あくまで理論上の仮説です。

次に「線」ですが、線は決して点が連続的に集まった集合体ではありません。何故かというと、数学的な定義から点には大きさがないため、長さがゼロの点を無限個繋げても長さはゼロのままであり、線にはならないからです。仮に線の定義を隣同士の点の距離を一定の長さにして繋げたものとしたとすると、それはもはや実線ではなく、点を並べた「点線」です。

したがって、もし、幾何的な線を定義するとすれば、点を動かしたときの軌跡であると定義することができます。

同様に、線には長さはあっても幅がゼロと定義されるので(幅がゼロでなければ、きしめんのような面になってしまう)、面は線の集合体ではなく(線を無限個重ねても1個の線の幅がゼロなので、面が出来ない)、線を動かしたときの軌跡であると定義できます。

同様に立体は面を動かしたときの軌跡であると定義できます。

また、単独の線や面はこの世に実在しませんが、境界線や断面や球の表面など1つ次元が高いところの末端(境界)に1つ下の次元が実在するではないかという声が聞こえてきそうですが、境界線と言っても面の端は、実際には原子が並んでおり、1つひとつの原子は概ね丸い形をしているため、その境界線の実態は、線ではなく、丸みを帯びたデコボコの面となっています。

また、立体のきれいな断面や表面は遠くから見ると面に見えますが、実際は原子が並んだデコボコの面です。

したがって、この世の中には、どうあがいても2次元以下の世界は存在しません。スケールを荒くすれば近似的には存在しますが、それは3次元の世界の中での近似的な次元を定義しているに過ぎないことです。

つまり、2次元以下の概念は数学的な抽象的概念です。

また、3次元空間の3つの次元(3つの座標軸)に時間の軸を4つ目の次元として加えた4次元時空体という概念がありますが、これももちろん実体のない数学的な抽象概念です。

そもそも空間と時間を同じ土俵に乗せることはできません。
3次元空間の3軸は空間の中の位置(空間座標)を表すものであり、時間はその位置が移動する速さの基準を表しているので、同じ座標軸に乗せるわけにはいきません。空間と時間は独立した次元であり、時間は空間と同じ仲間の次元ではないという意味で空間的な4次元は存在しないという意味です。

しかし、数学的には次元の個数は無限に存在します。
何故なら数学は抽象的な概念の学問なので、様々な事象がお互いに影響を及ぼすことがなく、皆独立した要素として構成されているものであれば、その個数分だけ次元が存在します。

したがって、空間と時間はそれぞれ独立した次元なので、空間と時間の概念を持ち合わせた事象は4次元の世界となります。

しかし、何度もいうようにこれは実体ではなくて、数学的に処理する上での概念です。つまり、3次元空間座標と時間の関数で構成された方程式は4次元で表されるということです。何も4次元の世界がそこに見えるというものではありません。また、次元自体は空間以外にもいくらでもありますが、数学上の幾何的な次元で定義すると上限は3次元までです。

超ひも理論では極小の世界では6次元の世界が見えない形でコンパクトに閉じ込められていて実際の4次元時空と併せて10次元の世界になっているということですが、これも数学的な処理によって6次元をコンパクト化させた抽象的な次元であって幾何学的な10次元の世界ではありません。

このように世の中には、4次元以上の世界を現実の世界と勘違いしている方が少なくないと思いますが、4次元以上の世界は全て数学的な抽象的概念であって幾何的な次元は世の中には3次元しか存在しないのです。前述のとおり0~2次元の世界も厳密には世の中には存在しない数学的概念です。

このままでは日本中の企業がブラック化する

人手不足がブラック企業を拡大させています。ロボットによる自動化は人手不足に追いついていません。特に業界的に自動化が難しく人手を頼りにしている企業はパートを募集してもよっぽど条件を良くしない限り、なかなか応募がありません。そのため、慢性的な人手不足が続き、連鎖的にそのしわよせが現場の社員に来て、パートの仕事を肩代わりすることによって、長時間残業となり、過重労働による健康障害が増加していきます。このままでは、過労死、過労自殺がますます増えるでしょう。

会社は、監督署の眼がうるさいので、36協定の範囲を超えて残業させないために、残業規制の指令を出す企業が少なくありません。
たとえば月30時間以上は残業しないよう自主規制を促したりします。
したがって、各社員またはリーダー格のパート社員は、月の残業時間が会社指示の時間を超えないよう残業時間帯の途中でタイムカードを打刻します。あとはお決まりのサービス残業(正式には「賃金不払残業」)となります。

この賃金不払い残業をさせている企業のほとんどは、会社側の責任者も確実に容認しています。その結果、タイムカード上は36協定の範囲内となっているため、労基法第32条違反(残業時間の協定超え)や同第37条違反(残業手当不払い)は認められませんが、賃金不払残業の時間を含めるとほとんどの場合が36協定の限度時間を大幅に超えて、過労死レベルの月80時間から100時間になっているケースが多く存在します。。

これが典型的なブラック企業の実態です。
私の知り合いにもこのようなブラック企業に勤務している人が多く(特にパートを多く使って人手を頼りにしているような企業)、希望に満ちて正社員として入社した会社が典型的なブラック企業(スーパー)だったため、入社1年後に体を壊す前に退職を決意した人がいました。

また、ある24時間稼働の食品工場では、パートを多くかかえている現場の若い社員が毎日午後8時から翌日の正午まで働かされ、途中の午前6時ころにタイムカードを打たされ、毎日5~6時間の賃金不払残業を強いられています。これは推定月140時間の残業となり、完全に労災の過労死認定基準を大幅に超えた残業時間になっています。逆にまだ過重労働で倒れていないほうが不思議なくらいです。

人は月45時間の残業時間を超えると超えた時間に比例して脳疾患、心臓疾患、精神疾患等が発症する確率が高まることが医学的に立証されています。そのため、厚生労働省では36協定は原則として月45時間を上限としており、この残業時間が80時間を超えると過重労働が原因で倒れた場合の労災認定基準に達し(ただし、発症前の2~6か月間の平均)、直前で月100時間を超えるとほぼ間違いなく労災認定基準となります。

さきほどの月140時間の残業時間については、この時間まで残業させ、長時間にわたる賃金不払残業を発生させて、過重労働で倒れたときは、仮に死ななかったり、あるいは後遺症が残るような障害にならなかったとしても所轄の労働基準監督署長は労働基準法違反容疑で司法事件として着手することを決定し、書類送検した日に悪質な企業としてプレス発表をすることになるでしょう。

今、紹介した企業は世の中では比較的知られた企業ですが、実態がブラック企業であることは世間の人にはほとんど知られていません。過重労働で倒れて事件となってマスコミに報道されない限り世間に知られることはないでしょう。事件として報道されたどこかの居酒屋や大手の広告会社のように。
しかし、一旦、ブラック企業として報道されると、そこには希望して入社する人は激減し、もはや優秀な人材を確保することはできないでしょう。つまり、労働者の労働力を搾取して企業が生き延びたとしても、誰かが過重労働で倒れれば、事件として公表され、世の中にブラック企業のお墨付きの烙印を押され、さらに人手が確保できなくなり倒産に追い込まれるでしょう。

この話は何もレアケースではなく、これからますます急速に進む少子高齢化によって、多くの業界が人手不足となり、残された従業員の過重労働はますます増加していくことは間違いありません。

その過重労働に耐えられず従業員が退職していけば、さらに残された従業員の負荷が増大し、過重労働による人手不足はまさに負のスパイララル現象を招くことになります。

この負のスパイラルを解消していくためには、RPA、AI、IT化等のデジタル化による業務の効率化、労働生産性の向上が急務であり、産業界や政府もこれに全力を投じて取り組まなくてはなりません。

RPAやAIが人間の職を奪うなどと悠長なことは言ってられない状況なのです。このままでは日本中の企業がブラック企業化するのは眼に見えている。

これは、もはや労働基準監督署の司法、是正勧告、指導、行政処分では解決できない問題です。

特に人手が足りない業界を優先して、RPAやAIによる業務の自動化を早急に実現させていかないと日本経済も立ち行かなくなるでしょう。

世の中をマクロで見ると、人手不足を解消しない限り、働き方改革は実現しません。RPAやAIによるロボット化は、将来企業で働く労働者の仕事を奪うかもしれないという心配よりも、現在労働者が働いている企業が倒産するかもしれないという心配のほうが優先される状況なのです。

4人麻雀感覚に限りなく近い3人麻雀の新ルールを公開

学生時代など友人と麻雀をやりたいと思ったときになかなか4人揃わないときがあったと思います。3人麻雀の一般的なルールは2~8の萬子(マンズ)と北を除いて行いますが、それだと役は限られるし、4人麻雀の感覚とはほど遠いルールなので、ちっとも面白くありません。そのようなときに3人でも4人麻雀に近い感覚でできる方法を発見し、楽しんでいました。

そのルールは極めて簡単です。ここで通常の3人麻雀と区別するために私が発明した3人麻雀を「新3人麻雀」と呼ぶことにします。まず、136枚の牌は4人麻雀と同じく全て使います(牌を抜くなんて邪道!)。
風については、北も入れて、サイコロなどで東が決まったら、南、西の順で座ります。したがって、最初の東場の時は、最初に東だった人は次から北、西となり、最初に南だった人は次から東、北となり、最初に西だった人は次から南、東となります。
4人麻雀では流局となったときに王牌(ワンパイ)として最後に場に14枚残しますが、4人麻雀の4人のうちの1人の手牌が13枚手元に残るので、新3人麻雀では余計な4人目の手牌分としてさらに14枚残し、合計28枚を王牌として場に残します。
よって、ツモの回数は4人麻雀では、東と南では70枚の牌を東西南北の順でツモるので、東南は18回、西北は17回ツモることになりますが、新3人麻雀では、69枚の牌を東南西の順にツモるので、3人が平等に23回ツモることになります。

このように4人麻雀ルールでは、東南になった人は西北になった人よりもツモの回数が1回多いので、明らかに不平等なルールであり、ゲームの平等性の観点からすると合理的なルールとなっていません。
したがって、合理的なルールに変えるには王牌を2枚減らすか、2枚増やせば4人のツモの回数は同じになります。何故、麻雀のルールを作った中国人が王牌を14枚残したのか未だに謎になっています。
普通ゲームは、あらかじめ使わない札を決めないでゲームの決着がつくまで全ての札を使うのが一般的です。麻雀も全ての牌を使うルールにする(ドラは始める前に何かの方法で決める。しかし、裏ドラなし)動きが一部にあるそうですがまだまだ世の中は従来のルールが一般的になっています。

新3人麻雀でも全てに牌を使うルールにしても良いと思いますが、現在の4人麻雀の感覚に近づけたいのであれば、28枚の王牌を残したほうがよいでしょう。ここで、新3人麻雀だと4人麻雀よりも5~6回多くツモるので、4人麻雀の感覚に反するじゃないかという声が聞こえてきそうですが、全員の場に捨てられる牌の数の合計は4人麻雀でも新3人麻雀でもほぼ同じであり、新3人麻雀は4人麻雀に比べてロン上がりが5~6回減り、その分ツモ上がりが増えるので、上がるまでの確率はほぼ同じのはずです。

次に上がりの点数ですが、通常の3人麻雀では4人麻雀と同じになるように調整していますが、新3人麻雀は4人麻雀のツモ上がりの点数を基準とします。
つまり、子どもで満貫で上がると子から2,000点、親から4,000点もられるので、合計6,000点(4人麻雀だと8,000点)。親で上がると子供から4,000点ずつもらい8,000点となります。同様に跳満だと子で9,000点(4人麻雀だと12,000点)、親で12,000点(4人麻雀だと18,000点)となります。したがって、満貫のロン上りは新3人麻雀だと子で6,000点、親で12,000点となります。また、平和(ピンフ)・ツモの上りでは、20符2飜で子の上りは子から400点、親から700点で1,100点となり、親の上りは700点オールで計1,400点となります。ロン上りも同じ点数です。
新3人麻雀はツモ上がりを基準としているので、4人麻雀制よりも1人分少ない割合の点数になります。新3人麻雀では上がりの点数が4人麻雀よりも多少デフレ化しますが、これが最も4人麻雀制に近い考えの点数になるのです。

以上で新3人麻雀のルールを説明しましたが、いかがでしたか。このルールを参考にして、これから麻雀をやるときにどうしても3人しか集まらなかったときの参考としてください。
また、この新ルールにこだわらず、皆さんで好きなようにアレンジして楽しんでください。

 

 

 

 

 

 

 

初心者向けジャズのアドリブ演奏の上達の近道

私は大学生のころモダンジャズ研究会でジャズピアノを弾いていました。
ジャズファンの方はいつごろからジャズを聴いているのでしょうか。ジャズを聴くようになるころって人さまざまだと思いますが、ジャズを普段聴かない人はジャズって難しいとか、聴いてもよくわからないとか言う人もいるかもしれません。私も中学生まではほとんどジャズを聴くことはありませんでした。たまにどこからか流れてくるポピュラージャズでテイク・ファイブなどは、聴いていて心地よくとてもイイ曲だなあと子供ながら思ってました。ジャズとの接触はその程度で、中学のころはポップス、フォーク、ビートルズなどポピュラーな和洋音楽を聴いていて、高校あたりからロックに傾聴しました。

私は好奇心が強い性格なので聞いているだけでは物足りなくなり、自分で演奏してみたいという衝動にかられて、エレキギターで外国の有名なロックギタリストのコピーをしたりして、ロックギターのアドリブテクニックを磨きました。
私が学生のころ一番尊敬していたロックギタリストはテン・イヤーズ・アフターのアルヴィン・リーでした。私は大概のロックギタリストのアドリブはほぼコピーできましたが、アルヴィン・リーだけは、他のギタリストにはない独特のアドリブラインを持っていてその速さやテクニックはなかなかまねできませんでした。

当時のハードロックはブルースをベースとしたハードブルース(ロックンロール)が主流でした。ブルースは12小節で基本的なコード進行もきっちりと決まっているため比較的ハードブルースをマスターするのはそれほど難しくはありません。

ほかの人はどのようにアドリブの訓練をしているのか知りませんが、私の場合、譜面は一切見ないで、耳でアドリブラインを覚えて楽器に再現するという方法でした。
オクターブ奏法で一世を風靡したウェス・モンゴメリーも楽譜が読めず、全て耳で覚えて一流のジャズギタリストになりました。

一通りロックギターのテクニックを自分なりにマスターしたところでロックのアドリブに少し物足りなさを感じるようになってから、次第にジャズの複雑で先が読めないアドリブに興味を持つようになり、ジャズに傾いていきました。

年齢とともに音楽の好みが変わっていくのは、やはり子供のころは大人よりも素直な性格なので、わかりやすくて、単純で、比較的簡単なコードで構成している曲を好む傾向があると思いますが、中学生や高校生あたりになると、少し自我に目覚めた自分をアピールするような音楽や世の中を批判的な眼で見るようになり反体制的な考えを主張したいという思いが加わってロックなどのハードな音楽に共感を覚えていくことが多くなるのではないかと思います。実際、私の場合そのような尖った感性でロックを好むようになりました。

しかし、年を重ねるにしたがって、次第に性格が丸くなり人はロックから最後は演歌に変わったり、私のようにジャズに変わっていく人が多いのではないでしょうか。もちろん高齢になるまでハードロックを貫き通す人もいるでしょうが…。

私は、高校3年のころ、本格的なジャズは聴いてもその良さがあまりわからなかったので、まず、ロックとジャズを融合したフュージョンやクロスオーバーから入っていきました。当時はジャズトランペッターのマイルス・デイビスがその先駆者であったため、よく聴き、日本ではジャズギタリストの渡辺香津美(教本も買いました)やナベサダなどを聴いていました。次第にジャズのアドリブに抵抗がなくなっていき、次のアドリブラインが予測できるようになっていきました。
私が最も尊敬するジャズギタリストはジョーパスです。彼は、ものすごいテクニシャンでアドリブラインも独特でなかなかマネのできない人でした。

私はジャズピアノにもたいへん興味があったので、ジャズギターの練習をしながら、ジャズピアノも練習していました。
ロックもジャズも共通してアドリブを上達させる近道は、まずブルースのアドリブをマスターすることです。
ロックもジャズも基本はブルースです。
ブルースが演奏できなければロックもジャズも演奏はできません。
おおざっぱに言うとブルースを8ビートにすればロックンロールやハードブルースになり、4ビートにすればジャズになります(たまにジャズで16ビートがありますが…。)。

ブルースにおけるロックとジャズの違いはリズムだけでなく、もう1つ重要な違いがあります。それはコードの種類です。もちろんベースとなるキーは同じですが、例えばロックなどはキーがCであれば単純にCコードを使うのではなく、7thコードなどを使いますが、ジャズだと9thコードや13thコードなどを普通に使います。
なぜならジャズという音楽は、常に緊張と緩和を交互に出していかないと陳腐な音楽に聞こえ、飽きてしまうからです。
だから、ジャズは不協和音をたくさん使います。安定した音階で癒されるような旋律に慣れてきた人には最初は違和感があると思うのでジャズの音楽がすんなりと入っていかないのではないかと思います。

子供のころは普通甘いものが好きで、ピーマンのような苦みがある野菜などは嫌いな子供が多いですが、大人になるにつれて、たとえばビールやピーマンのような苦みも旨味と感じて好きになることが多いと思います。
ジャズの不協和音は食べ物に例えると、この苦みに相当するのではないでしょうか。要するに大人になって初めてわかる味なのです。私にとって不協和音はもはやとても心地よく聞こえる和音です。まさにジャズの真骨頂ともいえるもので、これなくしてジャズは成り立ちません。

ブルースのジャスのアドリブをマスターできれば、ジャズ独特のアドリブ回しのこつがつかめるので、それからブルース以外のジャズにそのフレーズなどを取り込みながらジャズのアドリブを磨いていけば早く上達するはずです。

ブルースのいいところは、全員がお互いに初対面でジャズセッションをするときにブルースは基本的に誰でも演奏できるはずなのでキーさえ決めればすぐにブルースの演奏ができるというところです。

私は大学のころ、毎年1回自由が丘にあった「ニューファイブスポット」という日本で最も由緒あるジャズのライブハウス(来日した外国の一流ジャズミュージシャンの多くがそこで演奏していたところ)で7人のメンバーの中でピアノを担当していました。ギターでも良かったのですがそのグループには既にギター担当がいたのでピアノにしました。私の得意技は速弾きです。好きなジャンルはバップからフュージョンでした。作曲も10曲くらいしました。当時、モダンジャズ研究会のギター担当の先輩がNHK教育テレビのジャズ講座の講師をしていました。その先輩は大学卒業後プロになったみたいです。

大学を卒業して以来、セッションを組んだことはありませんが、たまにはしてみたいなあと思います。

脳は司令塔ではなかった。人体と組織社会のフラクタル構造

最近の医学研究の進歩は目覚ましいものがあり、かつて人体の司令塔は脳であるというのが定説となっていましたが、その考えは正しくないことがわかりました。
人体には約60兆個の細胞がありますが、外部からの刺激に反応して、いろいろな臓器の細胞が自らメッセンジャー物質(情報伝達物質)を発して、他の臓器や脳に伝達して、行動を起こさせるというネットワーク構造となっていることがわかりました。
たとえば、脂肪細胞は非常に重要なメッセンジャー物質を持っていて、食べ物を食べて満腹になると、小腸にある脂肪細胞が満腹になったという情報を伝えるメッセンジャー物質(レプチン)を発して、血管を通って脳の視床下部に達すると満腹中枢の細胞とレプチンが結びつき、食欲を抑えて満腹感を感じさせ食べるのをやめさせます。
見方をかえれば小腸の脂肪細胞が脳に指令してこれ以上食べるのをやめさせているとも言えます。
このようなやりとりは、臓器と脳との間で行われているだけではなく、脳を介さないで臓器と臓器の間でも血管を通ってメッセンジャー物質の伝達によってやりとりが行われています。

つまり、血管がネットワークとなり、臓器や細胞の中に存在しているメッセンジャー物質が血管を通って他の臓器や脳に伝達され、全ての臓器や細胞が一体となって人体をコントロールしています。

これを会社(人体)に例えると、ある部署(臓器)がある情報を入手したとき、その情報を他の全ての部署(臓器)と社長(脳)に伝え、他の部署(臓器)が影響を受けるものであれば、その部署(臓器)が緊急対応するとともに、社長(脳)が各臓器などにあらためて指令を出すようなものです。

考えてみると組織体と言うものは、皆似たような構造をしています。
国と地方自治体も基本的に地方で解決できるものは地方で処理し、国全体にわたるものは国が指令を出します。
世界(人体)も基本的には各国(臓器、細胞)がネットワーク(血管)で結んで貿易や情報(栄養素、メッセンジャー物質等)をやりとりしていますが、何か世界的な問題(温暖化問題、小氷河期到来問題、核問題等)が発生した場合は、解決に向けて国連や世界的な機関(脳)が協議・決定します。

これは数学的にいうと、この世の中に存在する組織体はフラクタル構造(入れ子構造)に近いものがあるのではないでしょうか。
フラクタル構造とは、簡単にいうと、例えば,樹木の枝,海岸線,積乱雲,肺や血管の構造、雪の結晶、株価の変動等、遠くから見ても近くから見ても同じ形に見える構造のことをいいます。

特に組織体を構成している各組織の数が多くなればなるほど全体を統制することが難しくなっていくので、ある程度は各組織の判断で決定して行動してもいいということになっていきます。

これを会社で例えると、小さな会社はワンマン社長が全ての社員の動きを掌握して具体的な指令を出すという場合が多いと思いますが、大企業は社長が全ての社員の行動を把握することは不可能なので、支店ごとの動きや部署ごとの動きまでを把握して会社全体の経営判断をしていくと思います。
つまり、大企業では組織体が大きくなっているので、日々の具体的な支店などの運営については支店に任せているというようなものです。

人体は約60兆の細胞から成り立っているので、脳はワンマン社長ではなく、大企業の社長となって、ネットワーク(血管)を通じて、日々の運営について任されている各支店長(各臓器)に全体的な指令あるいは特定の支店(臓器)に指令を出しているのです。

原発を廃止すべき理由

原子力発電所は火力発電所よりも半分程度のコストでエネルギー変換できるため、低コストでエネルギーを取得できるとして、経済の発展には欠かせないという政府や原子力関係者の言葉に騙されている国民はまだ多いのではないでしょうか。

この「低コスト」とは、目先だけのコストであって、最終的には処分等に莫大なコストがかかります。1つは原子力発電所の老朽化に伴う廃炉に係るコストです。この廃炉のノウハウさえ確立していない段階で核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)処理を含めて今後莫大な税金がつぎ込まれます。
また、稼働中においても常に核のゴミが出るので、原子力発電所の敷地内に核のゴミを置くスペースももはや限界に来ています。
原子力発電所が稼働し続ける限り、この核のゴミは無限大に向かって増え続けます。その核のゴミを無害なものに処理する方法は今のところ存在しません。
地中とかどこかに捨てるしかないのです。

政府は平成12年「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」を定め、地下300メートルより深く安定した地層に処分する「地層処分」を決めました。しかし、平成14年から原子力発電環境整備機構が行ってきた公募に対して、受け入れた自治体には多額の交付金を支給するという条件があるにもかかわれず、なかなか応募する自治体が現れません。
そこで政府は、平成27年、最終処分地に自治体が応募する方式から、国が地震や火山の影響を受けにくい複数の「科学的有望地」を示し、受け入れを打診する方式として選定を主導する形に転換しました。

しかし、外国人と比べて、日本人は国民気質として総論賛成、各論反対の民族なので、原子力発電所は賛成しても自分の地元を核のゴミ捨て場所にすることは絶対に許さない民族です。
したがってても、日本において、フィンランドやスェーデンのように地中とはいえ特定の場所を核のゴミ捨て場所にすることは今後も実現しないでしょう。

しかも日本は地震大国であり、地震の発生のおそれがないということで国が核のゴミの最終処分場として指定しても、阪神淡路などかつて地震のなかった地方でも大きな地震が発生している事実がある以上、100%大きな地震が発生しないという保証は今の科学技術レベルの段階ではどこにもないでしょう。

日本では今後も核のゴミの最終処分場の決定が期待できない以上、このまま無限大に向けて核のゴミを増やし続けることはまさに自殺行為です。
たとえていうと限られたスペースの中でどんどん有害なゴミが出続けているのに捨てる場所がないことがわかっていて、かつ、有害なゴミの原因を絶つ選択肢があるのに目先の利益にとらわれて、その原因をなくさないことと同じです。

この問題は日本だけではなく、世界的な問題であり、現在、世界では核のゴミの最終処理場(地中)を決めているのは2か国(フィンランドとスェーデン)だけです。

仮に、日本でも最終処分場が決定したとしてもゴミ処分にかかるコストや周辺住民への補償金、自治体への交付金、老朽化して廃炉にするときのコスト、また地震等で設備が破壊されたときのコスト等を考えると火力発電よりはるかにコストがかかります。また、そのようなコストを無視しても現在の水力発電で得られるコストより2倍かかります。

結論からいうと、原発そのものの危険性についての議論を別にしても、核のゴミが出ないような処理技術が発明されない限り、原発は永久に稼働させるべきではありません。もし、その処理技術が科学的に不可能であることが証明されたのであれば原発は全てなくすべきです。このままだと地球自体が無制限に汚染されていき、いつか自然からの仕打ちが来るでしょう。

また、原発の稼働そのものについても、現在の地震学のレベルや日本の陸地の構造は大地震発生が避けられない構造となっており、日本のどこにおいても大地震が発生する可能性がある以上、そんな地震大国に原発を設置するのは自殺行為です。

原発を残したいという人間の心理としては、せっかく科学の最先端の技術を駆使して発明されたものだし、リアルタイムでは火力発電よりも低コストで得られるエネルギーを使うほうが今の日本経済を良くする可能性があるという理由が多いと思われますが、そういう人は日本や世界の未来像を考えたことがあるのでしょうか。
原発はリアルタイムでは確かに他のエネルギーよりは比較的コスト安ですが、長い目でトータルで計算すると原発は高コストなのです。

ドイツでは、7年前に福島原発が地震でメルトダウンした事故を知ってから、すぐに全ての原発を廃止し、太陽エネルギーや火力発電などに切り替えることを決定しました。リアルタイムではまだ原発よりもコスト高になっているそうですが、その決断はさすがドイツ人だと敬服します。

原発の被害をまだ受けていない外国でさえ将来のとりかえしがつかないリスクを予想してすぐに原発を廃止したのに、取り返しがつかない原発事故を発生させた地震大国の日本がこれからも原発を稼働させていく方針をとっているのは異常な国であると言わざるを得ません。
これはやはり国の将来の安全よりも目先の大きな利権が原発の撤廃を阻止しているとしか思えません。

日本人は職人気質のところがあって手間暇かけて長い間続けてきたことを廃止して(あるいは変えて)、何か新しいことに変革することがなかなかできない国民だと思いますが、将来取り返しがつかないときを迎える前に今決断をすべきです。

一生に一度は絶対に行く価値のある秘境

私は若いころは全国のいろいろなところに旅行しました。その中でも最も感銘を受けたのは迷いなく知床にある「カムイワッカの湯の滝」と言えます。
私は若いころ友人数人と東京から車で夏場に2回ほどカムイワッカの湯の滝に行きました。
そこに行くには舗装されていない長く狭い道を車で行くしかなく、駐車できるスペースもあまりないため、大勢の観光客が来るようなところではありませんでした。
しかし、今は有名になってしまったので知床自然センターからシャトルバスが出ているそうです。また、観光客がにぎわう8月1日から8月25日の間はマイカー規制があって車とバイクの乗り入れは出来ないそうです。
完全な秘境に近く、人間の手がほとんど加わっていないところです。したがってトイレもありません。

当時はまだ世の中にあまり知られていなかった秘境で、そこは大量の温泉が湧き出て渓流となっています。渓流の底は岩場となっていて、渓流の深さは浅いところで足首当たり、深いところで膝くらいまでです。渓流は酸性度の強い温泉なので生物は住んでいないそうです。

その渓流の中に入って岩場を登っていきます。渓流の温度はちょうどぬるい温泉の温度なので、とても気持ちがよく大自然の中を沢登りする体験は一生に一度味わう価値があります。
途中で岩場をロープを伝ってよじ登ったりしなければならないところも確かあったと思うので小さな子供や老人は危険かもしれません。

その渓流をしばらく登っていくと滝と滝つぼがあるところに到達します。
そこで当時は裸になって滝つぼの温泉に入りました。滝つぼは1つだけで、男女用に分かれていないため、当時は、滝つぼの端に男女ごとに見張りを立てて、男女交替で素っ裸で滝つぼに入ったと記憶しています。
しかし、2回目に訪れたときは、既に有名になっていたので、滝つぼには男女混浴で水着で入っていました。

滝つぼの温泉の色は普通の温泉では見たこともないあざやかなエメラルドグリーンの色をしていました。
滝つぼの深さは腰から胸のあたりだっと思います。
私は好奇心が強い性格なので、そのすばらしいエメラルドグリーンの温泉を飲んでみたくなりました。
当時はまさにあまり知られていない秘境なのでその温泉を飲めるのかどうか一切表示などされていないので飲んでいる人は一人も見かけませんでした。しかも生物が住めないような強酸性の温泉なので飲んではいけなかったのかもしれませんが私は思い立ったら何の躊躇もなく少し味わってみました。

私はその味にびっくりしました。
まさに酸っぱいレモネードの味でした。

これは信じられないかもしれませんが、カムイワッカの湯の滝の温泉をそのまま喫茶店に出しても何の違和感もなく飲んでしまうほどおいしい味でした。私はもともと酸っぱい味が大好き(たとえば、バナナもまだ甘くなる前のすっぱ味が残っている若いバナナが好きだし、イチゴやかんきつ類も酸っぱいものが好き)なので余計に感動しました。

その温泉を飲んでいいのかどうか未だにわかりませんが、その後健康上何も変わらないので飲んでも大丈夫だと思います(ただし、大量には飲まない方が無難だと思います)。

また、滝つぼのところの滝の脇の岩場をロッククライミングしている若い男がいましたが、途中で墜落しました。幸い奇跡的に大けがには至らなかったようでした。当時は滝のロッククライミングをする命知らずの者が何人かいましたが、そのような危険なことは絶対にやめましょう。

この世界でも奇跡と言えるカムイワッカの温泉は一生に一度は人生の思い出として、沢登りできなくなるほどの老齢になる前に絶対に行く価値はあります。

知床は世界遺産になっていますが、このカムイワッカの湯の滝はその世界遺産の中の世界遺産だと思います。

AIの最大の構造的弱点とは

2045年は「シンギュラリティ」と言ってAI(人工知能)が人間の知能を超える年と言われています。しかし、AIには残念ながらまだ人間を超えられない致命的な弱点があります。AIの得意な点は、膨大な情報(ビッグデータ)の中から従来の経験値に照らして最良の選択肢を瞬時に(あるいは相当短時間に)決定できることや経験がなくてもAIが自ら学習(ディープラーニング)して短時間で経験を積むことができるという点です。

たとえば、AIが世界のトップレベルの囲碁のプロに勝ちましたが、これは囲碁のルールを教えることなしに過去の数千万回の囲碁の対局のプロセスを記憶させて、AI同士で対戦させて経験を積ませ、ルールや戦術を学習し、進化していった結果、人間を超えることができたのです。

つまり、これはどういうことかと言うと、あらかじめ完璧な戦術や理論を覚えこませたわけでなく、人間が長い年月をかけて経験を積んで覚えた戦術を短時間に覚えて強くなるのです。

したがって、AIを人間に例えると、人間が過去の膨大な経験によって蓄積したデータを全て記憶し、戦局の状況にしたがって過去のデータと照合させて次の一手を選択するようなものです。ある意味極めて人間的であり、人間の思考回路に似たアナログなスーパーロボットのようなものです。

そこには論理的な思考回路というものはありません。全て、ビッグデータに基いて統計的、確率的に判断しているのです。
したがって、データが少なかったり、経験のない(類似のデータがない)状況に直面したときにAIが判断することは難しいでしょう。
また、プロセスにいろいろな選択肢がある場合、必ずしも100%正しい答えが出てくるとは限りません。

AIの囲碁でもプロ棋士では絶対に打たない素人のような手を打ったとしても何故そのような手をAIが打ったのか人間は解説できません。AIも膨大なデータからベストな手を選択しただけであって、AI自身も何故その手を打ったのか説明はできないのです。
したがって、今のAIではプロ棋士の対局を論理的に解説することは難しいでしょう。

ここでもうAIの弱点はおわかりになったと思いますが、いくつかの判断要素が必要な思考パターンにおいては、従来人間が判断していた過去の多くの経験のビッグデータをもとにベストな答えを選択することしかできないので、100%の論理的思考によって正解を導くことができないということです。

よって、100%正しい答えを求める問題についてはAIは不向きです。
ファジィな判断要素が入らないプロセスであれば、AIよりもRPA(Robotic process automation)のほうが得意であり、100%の正解が期待できるでしょう。しかし、RPAは人間の知能を超えることはできません。
なぜなら、RPAは人間が行うパソコン上の操作をそのまま認識して、自分で短時間に人間の操作を再現するだけなので、人間の操作を超えてRPAの判断でパソコンを操作することはできないからです。

したがって、物理や数学の難解な問題を解くことについては、過去の膨大な経験値からベストな答えを導くものではないのでAIには難しいでしょう。これが可能となれば将来AIがノーベル物理学賞やフィールズ賞がもらえる時代が来るかもしれません。

人間の強みは、想像力、仮説力です。

新しい発見をする場合は、ある仮説を立ててみて、その仮説によって実際の観測結果が説明できることが少なくありません。

これは、まだAIは人間にかないません。この人間特有の論理的思考から生み出される想像力、ひらめき、インスピレーションのような思考回路は、AIは不得意です。AIが絵を描いたり、小説を書いたりするのも最初は人間がAIにきっかけを与える必要があります。2045年のシンギュラリティの時は、AIはこの課題をクリアしなければ人間を超えることはできないでしょう。

シンギュラリティが実現するためには、AIがビッグデータに頼らなくても論理的に思考でき、仮説を立てられる能力を取得することが必要でしょう。