「時間」とはある物質が一定周期をもつ運動に対して相対的な運動を表す概念である

「時間」の概念は昔からいろいろな哲学者や科学者によって考えられてきましたがどれもしっくり納得のいく答えが見つかっていないように思います。
かつて時間の単位は天体の動き(地球の公転、自転)を基準としていましたが、現在は国際単位系(SI)における時間の単位は秒(second) であり、1秒はセシウム原子の放射周期の約90億倍と定義されています。
普段私たちが使っている「時間」は、毎朝の起床時刻、会社の始業、終業時刻、休憩時間、残業時間、電車に乗っている時間、試験の時間、テレビ番組が始まる時刻、集合時刻など「時間」を使わなければ生活できないほどの重要なツールとなっています。

人間社会の視点で見れば、たとえば会社、学校など複数の人間が一斉に集合して何かをしなければならないときに、対象となる全ての人が認識できる共通の目安となるものが必要です。そのときに太陽がどの位置にあるときに集まろうと決めても人それぞれが感じる太陽の高さがあまりに誤差が大きいため人の集まり具合はバラバラになります。
このとき何か一定の周期を持って誰もが容易にその周期の位置がわかるものがあれば、その周期が正確であればあるほど集合するばらつきは少なくなくなります。現在は時計がその役割を果たしています。
このように身近なところから「時間」というものを考えていけば「時間」とは何なのか、わかってきます。

つまり、「時間」とは物質(人間でもよい)が運動(人間では行動)する際の変化の状況を表すための尺度と定義づけることができます。

もう少し具体的に言うと、たとえば人間が100mの直線距離を全力で走る運動に対して、その間、一定周期を持つもの(たとえば時計)が何回転したのかということでその人の走る平均速度が客観的に把握できます。
つまり、「時間」とは、ある運動に対して、一定周期をもつものがどのくらいの数を回転(又は振動)するかという運動を目安として、そのある運動の状態を把握するものです。

たとえば、宇宙空間がからっぽで何もない状態であると仮定(実際、宇宙空間の真空は物理的に何もない状態ではないがここでは何もない仮想の空間とする)したとき、そこは物質が1つもないので変化が全くない状態になっています。
そこには「時間」という概念は存在しません。
仮にその「無」の状態がどのくらい続いているのかという概念があればその時間の概念が生まれるのではないかと思う人もいるかもしれませんが、その考えには矛盾があります。何故かと言うと、「無の状態がどのくらい続いているか」という考え自体が変化、つまり無でなくなることを想定しているからです。ずっと無のままであれば無の状態の時間という概念もないのです。
少しでも何らかの変化がない限り「時間」という概念は発生のしようがありません。
では手元に何か一定周期のものがあってその周期回数を計ることにより無の状態の時間を計れるのではないかと言う人もいるかもしれませんが、これもそのようなものがあること自体既に「無」ではなくなっているので仮定条件に反しています。

【結論】
「時間」とはある物質が、一定周期の運動をする物質に対して相対的にどのように運動するかという概念です。

 

 

 

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