古文、漢文は高校教育において時間をかける余裕や必要性があるのか

私は高校生のころ、古文、漢文は好きではありませんでした。
私は理系の大学に入学して理系の学問を学びたかったし、社会人になってからも古文、漢文の知識は必要がないと思っていました。

しかし、文系の科目に興味がないというわけではなく、高校時代から経済学にも興味があり、独学で学校の教科書と関係ない経済の本も読んでいました。
もともと私は好奇心が強い性格で、物理学、大脳生理学、経済学に非常に興味があり、大学でどれを選択するか非常に迷っていました。
しかし、最終的には物理を学ぶことにしました。最も興味があったのは、宇宙の構造や素粒子の構造であり、脳のしくみや世の中の経済のしくみではなかったからです。

しかし、私は好きな本ばかり読んでいて、あまり真剣に受験勉強をしていませんでした。それなのに大学受験を甘くみて比較的偏差値の高い大学ばかり受験し、いわゆる滑り止めの大学を受験しなかったために、受験した大学全て不合格となり浪人生活を送ることになりました。

浪人して時間を無駄にするからにはもっと高いレベルの大学に入るしかないと思い、駿河台予備校理Ⅰコースを受験したところ運よく合格し(当時は、早稲田には合格したが駿河台予備校は落ちたという話もありました)、東大向けの受験勉強をしました。

今でもそうですが旧帝国大学は理系でも受験科目に古典(古文、漢文)があり、文系でも数学があります。数学の知識やセンスについては経済学を学ぶには必須ですが、大学で文学や法律を学ぶのに必要性は低いです。
同じように理学部や工学部に行って、古文、漢文の知識やセンスは必要ありません。

私は、東大理科Ⅱ類と東工大Ⅰ類を併願してどちらに行くか迷いましたが、当時は将来ノーベル物理学賞を目指していて、どうしても物理学科に行きたかったので東大理科Ⅱ類から物理学科に入るよりも東工大Ⅰ類から物理学科に入る確率のほうが高いと思いました。
私は予備校の公開模試でも政治・経済が最も成績が良かったので(偏差値70くらい)、本当は東工大よりも東大のほうが受かる自信がありましたが、最終的には東工大Ⅰ類を受験して合格し、2年から運よく物理学科に入れました。

当時は1年生での試験の成績1,200点満点中、1,000点以上取らないと物理学科には入れないといううわさがあり、私は960点だったので、大事をとって応用物理を第1志望にしようかとも思いました。

しかし、周りの学生の聞き込み調査をしたところ、私よりも点数が高い人が大事をとって応用物理に回る人が比較的多いことを知りました。

そこで私は自信がないけどもイチかバチか物理を第1志望にしたところ、当時東工大でも最難関と言われた物理学科に滑り込むことができました(何か自慢話のようになってすみません)。

しかし、今ではもう東工大の入試科目にはありませんが、当時の東工大ではたしか漢文が必須科目になっていました。
理系の単科大学で何故漢文が入試科目になっているのか理解できませんでした。

東大向けの勉強をしていたので漢文は特に苦にはしていませんでしたが、実際に東工大に入ってみて、漢文の知識は全く必要ありませんでした。1年の教養科目の中にも漢文の知識を使うような授業はなかったと思います。私は教養科目では経済学、心理学、行動科学などを選択しました。

世の中にはいろいろな試験があります。その試験問題の内容は、ふつう、合格後の必要な知識などに関連した試験問題しか出題されません。
例えば、医師の国家試験に古文の問題は必要でしょうか。
それと同じように大学の理系の試験科目に古典は必要でしょうか。

よくこの古典の教育問題については、大人になってからの教養のために必要だとか、歴史や文学を学ぶのに必要だとか、日本古来の言語を伝承していくために必要だとか、外国人から日本の古い伝統の質問をされたときに必要だという意見があります。

確かに日本の伝統として古来の日本語である古典を今後も伝承していく必要はあると思います。

問題は、その教育にかける時間や大学入試問題としての重要性です。

古典については、昔、日本はこのような文を使っていたとか、昔、中国ではこのような文が日本に伝わった程度の基本的な内容で十分だと思います。
受験レベルの古典の知識を要求する必要性はないと思います。
古典にとても興味がわいて、もっと深く知りたいと思えば、大学の文学部などに行って勉強すればよいのです。
高校までは通常教えない学問である法律学や第2外国語のように。

学校教育で古典を教えないよりは教えたほうが将来の本人の教養のためにもよいというレベルの議論はもはや終わっています。

それは何故か。

小・中・高校の12年間に教育できる時間は限られています(しかも比較的難しい学問を吸収できる能力がある高校時代は3年間だけ)。
また、昔は「10年ひと昔」といわれていましたが今や業界によっては「1年ひと昔」の時代です。

今や世界は、第4次産業革命が始まってから、生き残りをかけてAI化、IoT化に国や民間が莫大な金額を投資してしのぎを削っています。
しかし、そのためのIT人材が不足しています。

平成28年6月10日に経済産業省が発表した「IT 人材の最新動向と将来推計に関する調査結果」によると、IT人材は現在約90万人、不足数は約17万人ですが、2020年には約37万人が不足し、2030年には約79万人が不足すると予測しています。
このIT人材不足は世界的な傾向を示しており、このままだと将来世界中のIT人材がますます不足していくことになります。

このため、欧米では、その対策として既に小学生のころからプログラム言語を義務教育として取り入れています。
日本もこれに追いつくためにようやく2020年から小学校にプログラム言語教育を正式な科目として取り入れることになりました。

また、2008年度に小学5,6年生を対象に外国語活動として小学校の英語教育が始まり、2011年度に「小学5年生から必修」となり、2020年度には、「小学3年生からの必修化」「小学5年生からの教科化」が完全実施されます。

しかし、今の日本の英語教育は事実上未だに受験英語になっており、英会話教育を重視していないため、大学を卒業してもほとんどの社会人は英会話ができません。その結果、日本は未だに国際ビジネスに大きな障害を持ったままの状態になっています。

今後、日本が国際社会から取り残されないようにするためには、高校教育においてもプログラミング言語や英会話の教育が必須となり、多くの時間をさいて教育する必要があります。

悠長に教養を深めるために高校で古典に多くの時間をさいている余裕はないはずです。まして、大学の理系に古典を必須の受験科目にするという感覚は時代錯誤です。
世界の時間が今よりもゆっくりと流れていた時代では、古典を教育する余裕はあったかもしれませんが、高校生に教育できる時間は限られている中で、日本の生き残りをかえていかなければならない教育科目はどんどん増えていきます。

また、たとえば社会に出て必要な知識や考え方を身に付けるために知っておくべき基本的な法律(刑法総論、労働基準法など)を高校で教えることのほうが古典に多くの時間をかけるよりも重要ではないかと思います。

これからの日本の教育も選択と集中が必要です。
いつまでも旧帝国大学の受験のようにいろいろな方面において優秀なオールラウンドな人材(かつてのトヨタの80点主義のような品質)を集めるスタンスはもうやめて、古典は不得意でも数学や物理はとびぬけて成績が良い学生を集める等スペシャリスト型の人材あるいは秀才型ではなく天才型の人材を育てなければ世界に後れをとるのは目に見えています。

日本は未だに特に突出した才能はないがオールラウンドで管理能力のある社員が管理職として求められ、出世する国です。
学生のころから将来官僚や大企業の役員などになりたいという出世意欲の強い人は、自然とゼネラリストを目指すことになるでしょう。
したがって、理系の大学を出て突出した才能があっても単なる優秀なスペシャリストとして評価されるだけでゼネラリストほどには評価されないことが多いでしょう。
一般的に欧米ではスペシャリストはゼネラリストと同程度に評価されます。日本ももっとスペシャリストの地位を正当に評価しないと国は衰退していくと思われます。

 

 

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