「飽きること」との闘い

人間は何かに熱中していてもやがて飽きる時期がやってきます。
人間は同じ刺激が与え続けられるとその刺激に慣れてしまって、さらに強い刺激がなければ次第に反応が鈍くなっていきます。
うちにはベルという9歳のオスのトイプーを飼っていますが、たまにぬいぐるみに夢中になって遊びますがすぐに飽きて見向きもしなくなります。
人間も犬と同じく、いったん何かに興味や好奇心が沸くとその好奇心を満たすための一種の精神的な飢餓状態になりますがその飢餓状態が満たされれば好奇心はなくなります。
これは食欲と同じです。飢餓状態でごちそうを目の前にしたときは早く食べたいと思うでしょうが、満腹になったとたんにごちそうは目に入らなくなります。

しかし、食欲と好奇心の違いは、食欲は時間が経てば再び空腹となるので繰り返し食欲がやってきますが、好奇心は普通はそれが満たされれば再び同じ好奇心がまたやってくることはありません。
何故なら、その好奇心は1度経験して結果がわかっているので「もう1度知りたい」という欲求が生まれてこないからです。

しかし、たとえば自分が好きな趣味などは繰り返しても同じような快感(ドーパミンが出る状態)が得られることがわかっているので繰り返し行っても飽きるということはあまりありません。

商売は「消費者の飽きとの闘い」
商売も同じです。
ゲームや音楽が流行ったとしてもやがて飽きられますので別のゲームや音楽をリリースし続けていかないと事業は継続しません。
「飽きる」という人間の本能は、経営者にとっては生死にかかわる非常にやっかいなもので、日々商品開発の努力をしていかなければ生き残れません。

しかし、マクロ的に世の中を見ると、「飽きる」からこそ、次の新たな商品が生まれ、進化を遂げていくことになります。つまり、文化や文明の発達は、この「飽きる」現象があるために、より飽きないものを作り続けていく原動力が生まれてきたのだと思います。しかし、人間個人にとっても「飽きる」ことは、いろいろな障害になることが多いのが現実です。いわゆる「三日坊主」もその類になりますが、何かの目的をもって何かを始めるときに3日で飽きてしまい、それ以上続けることができない状態をいいます。
この3日を乗り切るためには、相当のモチベーションや継続するための工夫が必要となります。

「生きる意味」とは
また、よく定年後に自分はこれといった趣味もなく、1日中何もすることがなく、ときどきテレビを見るくらいで毎日が終わってしまうので生きている意味があるのだろうかと悩む方がいるかと思います。

よく、サラリーマン時代に家庭を顧みず、バリバリの仕事人間だった人が定年になって会社を辞めて気が付いたら何もすることがなくなったと燃え尽き症候群になる場合があります。
何もすることがないので生きている意味がないという理由で誰にも迷惑をかけないで死ぬことは自由ですが、この「生きる意味」というものは、もともと人間を含めて生物には存在しません。

人間(生物)は現象的に生まれ、現象的に死にます。何も意味があって生まれたわけではありません。それはある男女が運命的に出会って愛を誓い、子供を授かって子孫を残していくという美しい人間像、社会像を描くことはできますが、それも生物学的には生物の本能がそうさせているのです。

私もこのブログを読んでいるあなたも自分の意思でこの世に生まれたわけではなく、人の手によって誕生させられたわけです。しかし、両親は子どもが自然に死を迎えるまでは自ら命を絶つことは望まないでしょう。つまり、両親は子供に対して意味ある生き方を望んでいるわけではなく、不自由なく生きていることだけで十分なのです。
そもそも平穏、平凡に生きていくこと自体が難しい時代になっています。かつて国民は皆中流家庭の意識を持っていましたが、いまや時代とともに富裕層と貧困層に2極化しています。これからの貧困層は結婚して2人の子供を設け、家を持つというかつての人並みの生活を維持していくことがだんだんと難しくなっているのではないでしょうか。このままでは少子化がますます深刻となり国は衰退していくでしょう。

話が少し逸れましたので、少し元の話に戻しますが、「生きる意味」は特に絶対的には存在しません。生きることに意味を持たせるのはそれぞれ個人が決めることです。「このように生きるべきだ」と説教することも意味がありません。価値観は人それぞれだからです(ただし、人に迷惑をかけるなど社会的秩序を守らないことは別です)。自分が思う価値観について人に共感を求めることは自由ですが、人に強制することはできません。

退屈感を解消するには
「何をしてもすぐ飽きてしまう。退屈で退屈で死にそうだ。これから何を楽しみに生きていけばいいのだろう。」と思う方は一種の贅沢病(退屈病)なのいかもしれません。生き続けていくこと自体がたいへんな時代に一生懸命生きている人にとって、何もすることがなくて退屈だと感じる時間や心の余裕はありません。悪く言うと「貧乏暇なし」です。

かつて人類は狩猟の時代で日々生きていくことが精いっぱいの時代から少し時間のゆとりができて、いろいろと考える時間ができたおかげで科学が発達し、文明が栄えてきました。したがって、毎月100時間以上残業をさせるような会社は現場においてアイデアが生まれる余裕がなく会社は発展しないでしょう。

しかし、日々たいへん仕事で忙しい人でも休日は好きなことができるのであれば、さきほどの退屈病は誰でも起こりうることです。この感覚は、退屈であることが苦痛に感じる人と休日に1日ボーッとして過ごしても何も苦痛を感じない人もいるため、一概に退屈病が非難される筋合いは全くありません。
たとえば、小さな水槽の中で泳いでいる金魚やメダカは何が楽しみで生きているのだろうと思うと生きている意味がわからなくなります。人間から見て退屈そうに見えても金魚やメダカには全く退屈感がないのだろうと思います。
うちのベルも1日中寝ているかエサを食べているかのどちらかです。

退屈感を紛らわしたいのであれば何か1つ趣味を持つことが1番でしょう。

すぐ飽きてしまうことについては、そこまでのモチベーションしかなかったということですぐに目的をあきらめるか、モチベーションを奮起させて継続力を高めるしかないでしょうね。

最も理想的な美人顔、イケメン顔とは

世の中には美人やイケメンは少数で、ほとんどの人が十人並みか不細工と言われる部類に入ると思います。それは、多少の主観的な好みがあって、ある人には不細工に見えても別の人には美人(またはイケメン)に見えることもあるかもしれません。
美人像(またはイケメン像)は、人によっても時代によっても国によっても違うので一概にこういう人が美人(またはイケメン)であるという定義は難しいのかもしれません。

ところが、もしかしたらこれが客観的かつ理想的な美人顔(イケメン顔)になるのかもしれないという定義を発見しました。
ただし、これを定義づけるためには、性別、年齢別、人種別(国別)、時代別に理想像を分ける必要があります。
何故なら、それぞれの分類においてその分類に適合した理想像が異なるからです。

人間は一般的に安定な状態を快く感じ、不安定な状態は快く感じないものです。
たとえば、顔のパーツが普通の人より非常に離れていたり、一部のパーツが非常に大きかったりすると普通の人の顔よりも少し不安定な姿に見えるため、人はあまり快く感じない傾向にあると思います。

人間は、人と接して生きていかなければならない社会的動物なので、「自分の外見は少なくとも人から不快に思われない程度に普通の外見でありたい。出来れば、他人が快く感じる顔(美人またはイケメン)でありたい。」と思う人が多いのではないでしょうか(もはやそのように思う年齢を超えている人は別ですが‥‥。)。

では人が快く感じる顔とはどんな顔なのでしょう。
これは、ずばり、いかに平均的な顔に近いか、つまり顔のパーツや輪郭などが整っていればいるほど人は安心し快く感じるものです。

以前、外国の指名手配中の多くの女性と男性の顔写真が公開されていて、それぞれの写真の顔は美人やイケメンはほとんどいませんでした。
ところが、男女別にそれぞれの写真の顔を全て重ね合わせた結果、そこに現われた合成写真の顔は女性は絶世の美人で男性は超イケメンになっていました。

もうお分かりのとおり、多くの不細工な顔写真を重ね合わせると顔の輪郭やパーツが平均化されて整った顔になるため、女性は美人になり、男性はイケメンになるというわけです。

したがって、最も理想的な美人顔とイケメン顔の基準として、年齢別、人種別(国別)、時代別にできるだけ多くの顔写真を重ねて合成した顔がその分類に適合した理想的な顔であると定義することが可能です。

整形美人が皆同じような顔立ちになってしまうのは、理想の顔を求めると皆平均的に整った顔になってしまうからです。

多くの十人並みの顔や不細工な顔の中に少数の美人がいるから、快く感じさせる整った顔の美人が希少価値として価値が高まり(いわゆる目の保養を含めて。芸能界のアイドル系などが該当。)、美人が目立つのであって、皆整形して同じような顔立ちの美人になってしまうと、美人という価値が下がり、個性のないつまらない社会になってしまうかもしれませんね。