働き方改革を進めるにはRPAの導入が必須

日本は先進国の中では労働者一人当たりの労働生産性が非常に低い状況にあり、一人当たりの年間実労働時間は毎年少しずつ減って1700時間台になっていますが、これはパートなど非正規労働者の割合が増えていることが主な原因で、正規社員についてはこの20年間は年間2000時間くらいでほとんど減っていません。
政府は、長年低迷している個人消費を伸ばすことを目的の1つとして「働き方改革」を重点政策として積極的に取り組んでいます。
しかし、ホワイトカラーなど事務系の仕事については、なかなか業務の効率化が進まず、その結果労働生産性が向上していないのが現実です。
そのような社会の中で、相変わらず日本特有の現象である「過労死」や「過労自殺」が後を絶ちません。

ところが、2016年後半あたりから、労働生産性向上・業務効率化の画期的なツールが注目され始めました。

それが、「RPA」(Robotic Process Automation)です。

これは、簡単に言うと、ソフトを使って人間の判断要素が入らないパソコン上の単純な人間の入力操作や定型的な人間の入力操作をソフトが自動的に読み込んで、その後ソフトが自動的に人間の作業に替わって仕事をすることをいいます。

日本でも2017年から金融機関や大企業を中心として本格的な導入が急ピッチで行われています。

たとえば、ある生命保険会社は16業務にRPAを導入して5年間で1億4000万円のコスト削減ができると試算しています。
また、ある大手の商社では、年間130時間を要した作業がRPAの導入によって年間30時間で完了できるようになり、多発していた入力ミスも激減しました。

ただし、RPAは汎用型AIロボットのように人間に替わって判断をしながら仕事をすることはできないので、RPAにやってもらいたい一連の仕事の中に人間の判断要素が含まれている場合は、そこで作業がストップします。
したがって、RPAをうまく使いこなすためには、人間が判断して行うパーツを除いて、人間の判断を要しないパーツのみRPAに操作を記憶させるという人間とRPAを複合した「ハイブリッド型」の作業を進めればよいでしょう。

10~20年先には、日本の労働人口の49%はAIが人間に替わって仕事をすることが可能であると発表されています(野村総合研究所)。この波はもはや止めることはできません。なぜなら将来AIを導入しなければ、導入した同業者に負けて生き残れなくなるからです。

しかし、一部の大企業は別として、一般的な企業ではいきなりAIを導入することは、長い期間と多額の資金が必要なのですぐにはAIを導入することはなく、その前の段階として、数日から数週間で導入でき、しかも安価(一般的に年間数十万~数百万)なRPAから導入し、その後人間の判断を要する作業についてAIを導入していくという流れになるでしょう。

また、これからは少子化が進むことによって人手不足がますます深刻な時代を迎えます。人手が足りない分、限られた時間の中で多くの仕事をしていかなければならないので、このままでは過重労働はなかなか減らないことになります。
したがって、人手不足の解消や過重労働防止対策のツールとして、RPAの導入は避けて通れない時代となるでしょう。

私が今働いている職場は30人程度の職場ですが、2018年度からRPAを導入しようと考えています。
導入した暁には、そのノウハウなどをこのブログでお知らせしたいと思います。

笑いの構造

人間は何故笑うのでしょうか。
人間以外の動物は決して笑うことはありません(笑って見えるような場合もありますが)。
犬でも喜び、悲しみ、うれしさ、怒りなどの感情表現はしますが笑う感情はありません。笑いは人間独特の高度な生物特有の性質です。
人間は、普段の自分の身の回りの出来事と違う出来事で、かつ想定外の出来事を見聞きしたときに一瞬驚きの感情が沸きます。
「アレッ!おかしいな?どうしてだろう?」という考えが一瞬に脳をめぐり緊張感が走ります。
そしてすぐそのあとにオチが来て、「ああそうだったのかー」とほっとした気分になり、緊張が解けて頬が緩み笑いになるのです。

笑いの構造は4コマ漫画と同じく起承転結が基本
起   話の始まり
承   話の展開
転   話が急転→アレッ?と思わせる→一瞬緊張する
結   話のオチ→そうだったのか→結末に納得し緊張がほぐれ笑いとなる。

ここで漫才であればボケの後に相方がツッコミを入れます。ツッコミを入れることによってボケが引き立ちます。
ボケたままで終わってしまうと一瞬ボケた意味がわからず間が空いてしまい一瞬緊張感が走りますが、すぐにツッコミが入ることによって、ボケた意味がすぐに理解し、ホッとして気が緩み、ツッコんだ相方と共感が生まれ、ボケの普通でない言動や行動に興奮を覚え笑いとなります。

人間は普通でないことに対して不安を感じますが、話のオチやツッコミによって納得感が生まれ、その興奮状態を発散するため笑いが生じるのだと思います。

したがって、笑いを取りたいのであれば、普通の話の流れでは緊張する場面がないことから絶対に笑いは発生しませんので、「起承転結」の「転」のところで必ず普通でない状況を作り出す必要があります。
そして、次の「結」のところで、「転」とのギャップが大きければ大きいほど驚きも大きくなるので笑いも大きくなります。

たとえば、「起」として、ある通りで後ろ姿が髪型、髪のつや、ファッション、ミニスカートから出たスリムな脚、ハイヒール、歩く姿勢などから、およそ年齢が20歳代の美人を想像できるような女性が歩いていたとします。
次に「承」として、その後ろ姿を後ろから歩いていた30歳代の独身男性が一目ぼれして、声をかけてみようと決心します(いわゆるナンパ)。
次に「転」として、声をかけて振り向いた女性は何と見た目が70歳代の高齢者でした(実際に私も顔だけ見なければどう見ても20歳代に見えるご高齢の女性を何度か見かけたことがあります。)。ただ、ここまでで話が終わるとただの驚きで終わってしまい、見た目の年齢とファッションのギャップに驚くだけで多少の笑いが取れるだけだと思います。
最後に「結」として、ドン引きした男性がどういうふうにナンパを解消するか困っている姿に声をかけられた女性が積極的にナンパを受け入れようとするシチュエイションを表現すれば、その「想定外」の状況に笑いが生まれるのです。

この「笑い」とは違って「微笑ましい」、「嬉しい」という状況があります。
しかし、これは「笑い」とは心理的に異なるものです。たとえば、かわいい子犬や子猫を見て「かわいい」と感じて思わず微笑んでしまうのは面白くて笑うわけではありませんよね。これは、嬉しいときや喜びを感じるときに微笑となって表れるものです。この喜びの表現は人間独自のものではなく犬でも嬉しいときなどはシッポを振って喜びを表現します。

以上、笑う条件としては、笑う直前に「驚き」や「意外性」の状況が必要条件となるでしょう。普通の話の流れだけでは決して笑いは生まれません。
笑いネタを作るってたいへんですね。漫才やギャグ漫画のネタ作りに敬意を表します。

「飽きること」との闘い

人間は何かに熱中していてもやがて飽きる時期がやってきます。
人間は同じ刺激が与え続けられるとその刺激に慣れてしまって、さらに強い刺激がなければ次第に反応が鈍くなっていきます。
うちにはベルという9歳のオスのトイプーを飼っていますが、たまにぬいぐるみに夢中になって遊びますがすぐに飽きて見向きもしなくなります。
人間も犬と同じく、いったん何かに興味や好奇心が沸くとその好奇心を満たすための一種の精神的な飢餓状態になりますがその飢餓状態が満たされれば好奇心はなくなります。
これは食欲と同じです。飢餓状態でごちそうを目の前にしたときは早く食べたいと思うでしょうが、満腹になったとたんにごちそうは目に入らなくなります。

しかし、食欲と好奇心の違いは、食欲は時間が経てば再び空腹となるので繰り返し食欲がやってきますが、好奇心は普通はそれが満たされれば再び同じ好奇心がまたやってくることはありません。
何故なら、その好奇心は1度経験して結果がわかっているので「もう1度知りたい」という欲求が生まれてこないからです。

しかし、たとえば自分が好きな趣味などは繰り返しても同じような快感(ドーパミンが出る状態)が得られることがわかっているので繰り返し行っても飽きるということはあまりありません。

商売は「消費者の飽きとの闘い」
商売も同じです。
ゲームや音楽が流行ったとしてもやがて飽きられますので別のゲームや音楽をリリースし続けていかないと事業は継続しません。
「飽きる」という人間の本能は、経営者にとっては生死にかかわる非常にやっかいなもので、日々商品開発の努力をしていかなければ生き残れません。

しかし、マクロ的に世の中を見ると、「飽きる」からこそ、次の新たな商品が生まれ、進化を遂げていくことになります。つまり、文化や文明の発達は、この「飽きる」現象があるために、より飽きないものを作り続けていく原動力が生まれてきたのだと思います。しかし、人間個人にとっても「飽きる」ことは、いろいろな障害になることが多いのが現実です。いわゆる「三日坊主」もその類になりますが、何かの目的をもって何かを始めるときに3日で飽きてしまい、それ以上続けることができない状態をいいます。
この3日を乗り切るためには、相当のモチベーションや継続するための工夫が必要となります。

「生きる意味」とは
また、よく定年後に自分はこれといった趣味もなく、1日中何もすることがなく、ときどきテレビを見るくらいで毎日が終わってしまうので生きている意味があるのだろうかと悩む方がいるかと思います。

よく、サラリーマン時代に家庭を顧みず、バリバリの仕事人間だった人が定年になって会社を辞めて気が付いたら何もすることがなくなったと燃え尽き症候群になる場合があります。
何もすることがないので生きている意味がないという理由で誰にも迷惑をかけないで死ぬことは自由ですが、この「生きる意味」というものは、もともと人間を含めて生物には存在しません。

人間(生物)は現象的に生まれ、現象的に死にます。何も意味があって生まれたわけではありません。それはある男女が運命的に出会って愛を誓い、子供を授かって子孫を残していくという美しい人間像、社会像を描くことはできますが、それも生物学的には生物の本能がそうさせているのです。

私もこのブログを読んでいるあなたも自分の意思でこの世に生まれたわけではなく、人の手によって誕生させられたわけです。しかし、両親は子どもが自然に死を迎えるまでは自ら命を絶つことは望まないでしょう。つまり、両親は子供に対して意味ある生き方を望んでいるわけではなく、不自由なく生きていることだけで十分なのです。
そもそも平穏、平凡に生きていくこと自体が難しい時代になっています。かつて国民は皆中流家庭の意識を持っていましたが、いまや時代とともに富裕層と貧困層に2極化しています。これからの貧困層は結婚して2人の子供を設け、家を持つというかつての人並みの生活を維持していくことがだんだんと難しくなっているのではないでしょうか。このままでは少子化がますます深刻となり国は衰退していくでしょう。

話が少し逸れましたので、少し元の話に戻しますが、「生きる意味」は特に絶対的には存在しません。生きることに意味を持たせるのはそれぞれ個人が決めることです。「このように生きるべきだ」と説教することも意味がありません。価値観は人それぞれだからです(ただし、人に迷惑をかけるなど社会的秩序を守らないことは別です)。自分が思う価値観について人に共感を求めることは自由ですが、人に強制することはできません。

退屈感を解消するには
「何をしてもすぐ飽きてしまう。退屈で退屈で死にそうだ。これから何を楽しみに生きていけばいいのだろう。」と思う方は一種の贅沢病(退屈病)なのいかもしれません。生き続けていくこと自体がたいへんな時代に一生懸命生きている人にとって、何もすることがなくて退屈だと感じる時間や心の余裕はありません。悪く言うと「貧乏暇なし」です。

かつて人類は狩猟の時代で日々生きていくことが精いっぱいの時代から少し時間のゆとりができて、いろいろと考える時間ができたおかげで科学が発達し、文明が栄えてきました。したがって、毎月100時間以上残業をさせるような会社は現場においてアイデアが生まれる余裕がなく会社は発展しないでしょう。

しかし、日々たいへん仕事で忙しい人でも休日は好きなことができるのであれば、さきほどの退屈病は誰でも起こりうることです。この感覚は、退屈であることが苦痛に感じる人と休日に1日ボーッとして過ごしても何も苦痛を感じない人もいるため、一概に退屈病が非難される筋合いは全くありません。
たとえば、小さな水槽の中で泳いでいる金魚やメダカは何が楽しみで生きているのだろうと思うと生きている意味がわからなくなります。人間から見て退屈そうの見えても金魚やメダカには全く退屈感がないのだろうと思います。
うちのベルも1日中寝ているかエサを食べているかのどちらかです。

退屈感を紛らわしたいのであれば何か1つ趣味を持つことが1番でしょう。

すぐ飽きてしまうことについては、そこまでのモチベーションしかなかったということですぐに目的をあきらめるか、モチベーションを奮起させて継続力を高めるしかないでしょうね。

世の中の真理とは何だろう

一般的には「真理」とは、「時間的、空間的に不変な物の考え方」と定義づけることができます。
この定義にしたがって、真理を追究する学問にはどのようなものがあるか検証してみましょう。

まず、「法律学」はどうでしょう。
法律は同じ国でも時代とともに社会や国民の意識が変化していくので、法律も時代とともに変わっていき、また、国によっても法律はまちまちです。したがって、法律学に「真理」というものはありません。まさに時間的、空間的に変化していくものです。

次に、「数学」はどうでしょう。
代数学については、数字は人間が定義づけたものであり、数字や文字を使って、たとえばAが成り立てばBが成り立つとか、ある未知数を使って方程式を立てるなどある現象を数式で表すときなどに使うもので、自然現象や社会現象のふるまいを数式で表現するツールの役目をしています。したがって、数学自体は真理の追究というよりもいかに役に立つツールを見つけるかとか公理や定理を表すものだと思います。また数学の未解決問題については、解の探究であって真理の探究ではありません。

次に「経済学」はどうでしょう。かつては「マルクス経済学」も大学で盛んに研究されていましたが、今は資本主義を中心とした近代経済学が主流です。
経済学は、科学技術や文明の発展にしたがって変遷していくものであり、国の事情や文化によっても異なってくるので、絶対的な真理というものはなさそうです。
将来の理想的な経済社会を求めて研究はされているとは思いますが…。

「物理学」はどうでしょう。
少なくとも地球上における全ての物理現象については、地球上のどこで実験や観測をしても事実は1つだけだと思いますので真理という概念が存在するでしょう。しかし、これがたとえばブラックホールの近辺ではどうかとか宇宙の環境が異なる場所では違った法則が成り立つ可能性が高いかもしれません。
しかし、そのように宇宙環境が極端に違った場合でもそのような条件のもとに物理法則が成り立つので、いかなるとき(たとえば宇宙誕生という事実が仮にあるとすればそのときなど)、いかなる場所においても物理の法則は決定されることが期待されるので物理学には「真理」というものが存在しうる学問だと言えます。
かつてのローマ帝国は聖書が唱えている「天動説」(地球は宇宙の中心にあって静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているとする説)が当たり前の時代であり、「地動説」を唱えたジョルダーノ・ブルーノを火あぶりの刑に処したり、ガリレオ・ガリレイを終身刑に処したりしていました。
誤った法律によって「真理」が捻じ曲げられていたわけです。
しかし、その後コペルニクス、ケプラー、ニュートンらの出現によって天動説は完全に消滅しました。

しかし、現代の物理学においても必ずしもまだ「真理」であるとはとは言い切れない理論がいくつか残っています。
それは、「ビッグバン宇宙論」と「特殊相対性理論」です。
この2つの理論は既にグローバルスタンダード化していますが(特に日本では強く支持されています)、私はこの2つの理論は現代の「天動説」に近い理論だと思っています。
いつかこの2つの理論が誤りであったと気づく時代が来ることでしょう。

これからは地球寒冷化対策が急務だ

2015年に英国ノーザンブリア大学のバレンティーナ・ザーコバ教授率いる研究チームの発表によれば、2030年から太陽活動が現在の60%に低下し、地球はミニ氷河期に突入するとの発表がありました。
太陽は表面にある黒点の数が多いほどエネルギーが強く、少ないほど弱いことが知られています。この黒点の数の多さが11年周期で変化しています(何故11年なのかは未解明)。ところが、この周期に乱れが生じてしばらくの間黒点がほとんど消えることがあります。このとき地球上はミニ氷河期になります。
そして、昨年は1年のうち300日間黒点が現れなかったので既にミニ氷河期に入りかけているという説もあります。そして、このごろ世界中を襲っている大寒波もミニ氷河期の予兆ではないでしょうか。

もっとも最近のミニ氷河期は、 1645~1715年に発生した「マウンダー極小期」と呼ばれるものでこの間は太陽の黒点は極端に減少しました。イギリスのテムズ川が厚さ1.5メートルの氷で覆われました。
日本では江戸時代で飢饉が相次ぎ、徳川幕府が倒れたきっかけとも言われています。
また、ミニ氷河期の時代は食糧危機となって世界情勢が不安定となり、いたるところで争いが発生しています。

今度ほぼ確実にやってくるであろうミニ氷河期においても世界中で食糧難が深刻な状況となり、どこかで戦争が始まる危険性もあります。飢饉や病気で約20億人が死亡するであろうとも言われています。

もう既にミニ氷河期は始まっているかもしれないので、地球温暖化対策など悠長なことを言っている場合ではないでしょう。

過去の例をみても地球が温暖な時期よりも氷河期の時期のほうがはるかに悲惨な世界であったことは言うまでもありません。

特に日本は自給自足率が低いのでお金はあっても世界的な食糧不足で必要な食糧を輸入できないかもしれません。

政府は今のうちに食糧確保問題、省エネ問題(寒冷化するとエネルギー需要が高まる)等寒冷化対策を検討し始めるべきだと思います。
ミニ氷河期に突入するともはやこの先何十年も地球温暖化対策は不要になるでしょう。