タイムカード等による労働時間の把握義務は法制化すべき

「労働時間」といえば最近話題となっている「働き方改革」の一環として、政府が過重労働防止対策として36協定(時間外労働・休日労働に関する労使協定のことで労働基準法第36条から来る略称)の時間外労働の上限時間を罰則を持って定めることを決定したことは記憶に新しいと思います。

労働時間の問題は昔からいろいろとあって、何度も労働基準法の法改正や新たな通達が発出されたりしました。
ところが、最も基本的な部分が真剣に議論されておらず、未だに通達レベルにとどまり、法制化されていないことがあります。

それは「始業時刻、終業時刻の記録」です。

1か月間の時間外労働時間の記録については、労働基準法第108条で賃金台帳に記載しなければならないと規定されていますので、ある程度の労働時間の把握については義務付けられていることになってますが、日々の労働時間の把握までの規定はないため、サービス残業(正式には「賃金不払残業」といいますが世の中ではサービス残業の言葉のほうが知られているのであえてこの言葉を使います)を行わせていて賃金台帳の時間外労働時間の欄が空白又ゼロになっていたとしても、臨検監督に来た労働基準監督官に対して当社は時間外労働はさせておりませんと言われれば、タイムカードや残業申請書など労働時間を記録したものがない限り、サービス残業の証拠を見つけることは容易ではありません。

しかし、そのような場合でもその会社の労働者の監督署への通報または申告によってサービス残業の実態があることがわかっている場合は、監督官が任意に労働者が使用しているパソコンのファイルやメールのログを見て、その時刻が所定終業時刻を過ぎている場合は、事実上残業があったという証拠になるため、その証拠を会社側につきつけてザービス残業をさせていた事実を認めさせます。

従来から会社が行っている労働時間の管理方法については、矛盾する点が1つあります。

それは何か。

それは、「労働時間を把握しないほど法違反を免れる可能性が高まる」ということです。

かつて、ある会社が監督官に臨検監督された際、タイムカードの記録と残業手当に見合う残業時間の数値に乖離があるとして、不払賃金の差額を遡及して支払ったことがありましたが、その後、その会社は再発防止対策?として、タイムカードを廃止しました。いわゆる証拠隠滅作戦です。
これだと次回監督官が来ても残業の証拠がないのでサービス残業のし放題というわけです。

しかし、そのようなことをしてもその会社の労働者がパソコンを使っていれば、ログの記録から残業の実態がばれるし、抜き打ちで労働者から聞き取りをすることもあるので、ばれる可能性があります。
また、会社がそのような犯罪をあからさまに行うと労働者はあきれてその会社のために一生懸命働いて会社に貢献したいという気持ちはなくなり、労働者全体の士気が下がり、事業は間違いなく下り坂に向かうでしょう。

つまり、サービス残業の実態が存在していた場合、タイムカードなど始業時刻と終業時刻の記録がなければ、会社側が否認した場合に証拠を示すことが難しいということです。

タイムカードがなくても残業するときは残業申請書を上司に提出させるやり方を取っている会社もありますが(役所のほとんどがこの形式)、この場合の問題は、その部署の残業時間を減らしたいために上司から圧力がかかり、残業申請しづらい雰囲気にさせ、結果、サービス残業をさせている場合があるということです。したがって、この場合もタイムカードなど客観的に労働時間を把握するものがない限り、サービス残業時間を把握することは難しくなります。

私はかなり前からこの問題意識を持っていて、かつて本省の知り合いの課長補佐にタイムカード等を使った労働時間の客観的な記録を法制化しないと労働時間を把握しない会社ほど罪を免れることになるので早急に法制化をお願いしましたが、まだその話は時期尚早だと言われました。

しかし、あれから相当な年数が経っているのに未だに法制化されていません。労働基準法関係の法改正は、常に経営者側の反対が伴うものなので、この問題も何らかの圧力があって通達に留まっているのかもしれません。

高校数学の教科書の教え方は改善の余地あり

私の娘は今25才の社会人ですが、娘には厳しい受験競争の経験をさせたくなかったので無難に大学付属の私立高校に行かせました。
娘は推薦入学により大学の法学部を希望していました。
大学付属高校からその大学に推薦入学できるためには、希望の学部によってある一定の基準以上の成績でなければ推薦できないことになっていましたが、幸い娘の成績はその基準以上に達していたので親としては安心していました。

ところが、推薦入学とはいってもその大学は推薦入学受験者用の試験があり、法学部でもどういうわけか数学が必須となっていて、100点満点中最低でも50点程度は取らないと推薦してもらえないことになっていました。

娘は国語は得意でしたが数学が苦手で学校の試験前に一夜漬けで私が教えて試験の結果はある程度の点は取れるのですが、試験が終わるとすぐに解き方を忘れてしまうので、時間が経ってからテストで過去に同じ問題が出ても解けないという状況でした。

したがって、大学受験まで残り1か月くらいになってその大学の数学の推薦入学用の過去問を解かせたところ、25点くらいしか取れなかったので、これはやばいと思い、これからは数学を集中的に勉強するよう指示し、2週間後にもう1度過去問をやらせたところ、やはり25点くらいしか取れませんでした。

私はあせってこのままでは推薦入学は難しいと判断し、私が特訓して教えることにしました。

私は教科書に沿って教えていくうちにあるところで私でもわかりづらいところに遭遇して娘にわかりやすく教えるにはどのようにしたらいいのか少し悩みました。しかし、すぐに私は教科書の教え方がわかりづらくしているということに気づきました。
教科書は何故こんなにまわりくどい解き方を教えているのだろうと不思議に思いながら、もっと簡単でわかりやすい解き方はないだろうかと少し考えたところ、すぐに別の解法を思いつき、娘にその解き方を教えたところ、娘も理解し、同じような問題を解かせたところ、正解することができました。
このように私流の解き方を教えながら約2週間特訓したところ、過去問を25点から何とか50~60点くらいまで上げることができました。

私は当時高校の数学の教科書のレベルが昔に比べて落ちているように思いました。

数学の問題の解法は一般的に複数あるのが多いと思いますが、もっと効率的でわかりやすい解き方を教科書が教えるべきであり、学校も全て教科書どおりに教えるのではなく、こういう解き方もあるということを教えるべきだと思います。

1つの解き方しか教えなければ、柔軟な発想を養う訓練ができないのではないでしょうか。

古文、漢文は高校教育において時間をかける余裕や必要性があるのか

私は高校生のころ、古文、漢文は好きではありませんでした。
私は理系の大学に入学して理系の学問を学びたかったし、社会人になってからも古文、漢文の知識は必要がないと思っていました。

しかし、文系の科目に興味がないというわけではなく、高校時代から経済学にも興味があり、独学で学校の教科書と関係ない経済の本も読んでいました。
もともと私は好奇心が強い性格で、物理学、大脳生理学、経済学に非常に興味があり、大学でどれを選択するか非常に迷っていました。
しかし、最終的には物理を学ぶことにしました。最も興味があったのは、宇宙の構造や素粒子の構造であり、脳のしくみや世の中の経済のしくみではなかったからです。

しかし、私は好きな本ばかり読んでいて、あまり真剣に受験勉強をしていませんでした。それなのに大学受験を甘くみて比較的偏差値の高い大学ばかり受験し、いわゆる滑り止めの大学を受験しなかったために、受験した大学全て不合格となり浪人生活を送ることになりました。

浪人して時間を無駄にするからにはもっと高いレベルの大学に入るしかないと思い、駿河台予備校理Ⅰコースを受験したところ運よく合格し(当時は、早稲田には合格したが駿河台予備校は落ちたという話もありました)、東大向けの受験勉強をしました。

今でもそうですが旧帝国大学は理系でも受験科目に古典(古文、漢文)があり、文系でも数学があります。数学の知識やセンスについては経済学を学ぶには必須ですが、大学で文学や法律を学ぶのに必要性は低いです。
同じように理学部や工学部に行って、古文、漢文の知識やセンスは必要ありません。

私は、東大理科Ⅱ類と東工大Ⅰ類を併願してどちらに行くか迷いましたが、当時は将来ノーベル物理学賞を目指していて、どうしても物理学科に行きたかったので東大理科Ⅱ類から物理学科に入るよりも東工大Ⅰ類から物理学科に入る確率のほうが高いと思いました。
私は予備校の公開模試でも政治・経済が最も成績が良かったので(偏差値70くらい)、本当は東工大よりも東大のほうが受かる自信がありましたが、最終的には東工大Ⅰ類を受験して合格し、2年から運よく物理学科に入れました。

当時は1年生での試験の成績1,200点満点中、1,000点以上取らないと物理学科には入れないといううわさがあり、私は960点だったので、大事をとって応用物理を第1志望にしようかとも思いました。

しかし、周りの学生の聞き込み調査をしたところ、私よりも点数が高い人が大事をとって応用物理に回る人が比較的多いことを知りました。

そこで私は自信がないけどもイチかバチか物理を第1志望にしたところ、当時東工大でも最難関と言われた物理学科に滑り込むことができました(何か自慢話のようになってすみません)。

しかし、今ではもう東工大の入試科目にはありませんが、当時の東工大ではたしか漢文が必須科目になっていました。
理系の単科大学で何故漢文が入試科目になっているのか理解できませんでした。

東大向けの勉強をしていたので漢文は特に苦にはしていませんでしたが、実際に東工大に入ってみて、漢文の知識は全く必要ありませんでした。1年の教養科目の中にも漢文の知識を使うような授業はなかったと思います。私は教養科目では経済学、心理学、行動科学などを選択しました。

世の中にはいろいろな試験があります。その試験問題の内容は、ふつう、合格後の必要な知識などに関連した試験問題しか出題されません。
例えば、医師の国家試験に古文の問題は必要でしょうか。
それと同じように大学の理系の試験科目に古典は必要でしょうか。

よくこの古典の教育問題については、大人になってからの教養のために必要だとか、歴史や文学を学ぶのに必要だとか、日本古来の言語を伝承していくために必要だとか、外国人から日本の古い伝統の質問をされたときに必要だという意見があります。

確かに日本の伝統として古来の日本語である古典を今後も伝承していく必要はあると思います。

問題は、その教育にかける時間や大学入試問題としての重要性です。

古典については、昔、日本はこのような文を使っていたとか、昔、中国ではこのような文が日本に伝わった程度の基本的な内容で十分だと思います。
受験レベルの古典の知識を要求する必要性はないと思います。
古典にとても興味がわいて、もっと深く知りたいと思えば、大学の文学部などに行って勉強すればよいのです。
高校までは通常教えない学問である法律学や第2外国語のように。

学校教育で古典を教えないよりは教えたほうが将来の本人の教養のためにもよいというレベルの議論はもはや終わっています。

それは何故か。

小・中・高校の12年間に教育できる時間は限られています(しかも比較的難しい学問を吸収できる能力がある高校時代は3年間だけ)。
また、昔は「10年ひと昔」といわれていましたが今や業界によっては「1年ひと昔」の時代です。

今や世界は、第4次産業革命が始まってから、生き残りをかけてAI化、IoT化に国や民間が莫大な金額を投資してしのぎを削っています。
しかし、そのためのIT人材が不足しています。

平成28年6月10日に経済産業省が発表した「IT 人材の最新動向と将来推計に関する調査結果」によると、IT人材は現在約90万人、不足数は約17万人ですが、2020年には約37万人が不足し、2030年には約79万人が不足すると予測しています。
このIT人材不足は世界的な傾向を示しており、このままだと将来世界中のIT人材がますます不足していくことになります。

このため、欧米では、その対策として既に小学生のころからプログラム言語を義務教育として取り入れています。
日本もこれに追いつくためにようやく2020年から小学校にプログラム言語教育を正式な科目として取り入れることになりました。

また、2008年度に小学5,6年生を対象に外国語活動として小学校の英語教育が始まり、2011年度に「小学5年生から必修」となり、2020年度には、「小学3年生からの必修化」「小学5年生からの教科化」が完全実施されます。

しかし、今の日本の英語教育は事実上未だに受験英語になっており、英会話教育を重視していないため、大学を卒業してもほとんどの社会人は英会話ができません。その結果、日本は未だに国際ビジネスに大きな障害を持ったままの状態になっています。

今後、日本が国際社会から取り残されないようにするためには、高校教育においてもプログラミング言語や英会話の教育が必須となり、多くの時間をさいて教育する必要があります。

悠長に教養を深めるために高校で古典に多くの時間をさいている余裕はないはずです。まして、大学の理系に古典を必須の受験科目にするという感覚は時代錯誤です。
世界の時間が今よりもゆっくりと流れていた時代では、古典を教育する余裕はあったかもしれませんが、高校生に教育できる時間は限られている中で、日本の生き残りをかけていかなければならない教育科目はどんどん増えていきます。

また、たとえば社会に出て必要な知識や考え方を身に付けるために知っておくべき基本的な法律(刑法総論、労働基準法など)を高校で教えることのほうが古典に多くの時間をかけるよりも重要ではないかと思います。

これからの日本の教育も選択と集中が必要です。
いつまでも旧帝国大学の受験のようにいろいろな方面において優秀なオールラウンドな人材(かつてのトヨタの80点主義のような品質)を集めるスタンスはもうやめて、古典は不得意でも数学や物理はとびぬけて成績が良い学生を集める等スペシャリスト型の人材あるいは秀才型ではなく天才型の人材を育てなければ世界に後れをとるのは目に見えています。

日本は未だに特に突出した才能はないがオールラウンドで管理能力のある社員が管理職として求められ、出世する国です。
学生のころから将来官僚や大企業の役員などになりたいという出世意欲の強い人は、自然とゼネラリストを目指すことになるでしょう。
したがって、理系の大学を出て突出した才能があっても単なる優秀なスペシャリストとして評価されるだけでゼネラリストほどには評価されないことが多いでしょう。
一般的に欧米ではスペシャリストはゼネラリストと同程度に評価されます。日本ももっとスペシャリストの地位を正当に評価しないと国は衰退していくと思われます。