世の中の真理とは何だろう

一般的には「真理」とは、「時間的、空間的に不変な物の考え方」と定義づけることができます。
この定義にしたがって、真理を追究する学問にはどのようなものがあるか検証してみましょう。

まず、「法律学」はどうでしょう。
法律は同じ国でも時代とともに社会や国民の意識が変化していくので、法律も時代とともに変わっていき、また、国によっても法律はまちまちです。したがって、法律学に「真理」というものはありません。まさに時間的、空間的に変化していくものです。

次に、「数学」はどうでしょう。
代数学については、数字は人間が定義づけたものであり、数字や文字を使って、たとえばAが成り立てばBが成り立つとか、ある未知数を使って方程式を立てるなどある現象を数式で表すときなどに使うもので、自然現象や社会現象のふるまいを数式で表現するツールの役目をしています。したがって、数学自体は真理の追究というよりもいかに役に立つツールを見つけるかとか公理や定理を表すものだと思います。また数学の未解決問題については、解の探究であって真理の探究ではありません。

次に「経済学」はどうでしょう。かつては「マルクス経済学」も大学で盛んに研究されていましたが、今は資本主義を中心とした近代経済学が主流です。
経済学は、科学技術や文明の発展にしたがって変遷していくものであり、国の事情や文化によっても異なってくるので、絶対的な真理というものはなさそうです。
将来の理想的な経済社会を求めて研究はされているとは思いますが…。

「物理学」はどうでしょう。
少なくとも地球上における全ての物理現象については、地球上のどこで実験や観測をしても事実は1つだけだと思いますので真理という概念が存在するでしょう。しかし、これがたとえばブラックホールの近辺ではどうかとか宇宙の環境が異なる場所では違った法則が成り立つ可能性が高いかもしれません。
しかし、そのように宇宙環境が極端に違った場合でもそのような条件のもとに物理法則が成り立つので、いかなるとき(たとえば宇宙誕生という事実が仮にあるとすればそのときなど)、いかなる場所においても物理の法則は決定されることが期待されるので物理学には「真理」というものが存在しうる学問だと言えます。
かつてのローマ帝国は聖書が唱えている「天動説」(地球は宇宙の中心にあって静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているとする説)が当たり前の時代であり、「地動説」を唱えたジョルダーノ・ブルーノを火あぶりの刑に処したり、ガリレオ・ガリレイを終身刑に処したりしていました。
誤った法律によって「真理」が捻じ曲げられていたわけです。
しかし、その後コペルニクス、ケプラー、ニュートンらの出現によって天動説は完全に消滅しました。

しかし、現代の物理学においても必ずしもまだ「真理」であるとはとは言い切れない理論がいくつか残っています。
それは、「ビッグバン宇宙論」と「特殊相対性理論」です。
この2つの理論は既にグローバルスタンダード化していますが(特に日本では強く支持されています)、私はこの2つの理論は現代の「天動説」に近い理論だと思っています。
いつかこの2つの理論が誤りであったと気づく時代が来ることでしょう。

これからは地球寒冷化対策が急務だ

2015年に英国ノーザンブリア大学のバレンティーナ・ザーコバ教授率いる研究チームの発表によれば、2030年から太陽活動が現在の60%に低下し、地球はミニ氷河期に突入するとの発表がありました。
太陽は表面にある黒点の数が多いほどエネルギーが強く、少ないほど弱いことが知られています。この黒点の数の多さが11年周期で変化しています(何故11年なのかは未解明)。ところが、この周期に乱れが生じてしばらくの間黒点がほとんど消えることがあります。このとき地球上はミニ氷河期になります。
そして、昨年は1年のうち300日間黒点が現れなかったので既にミニ氷河期に入りかけているという説もあります。そして、このごろ世界中を襲っている大寒波もミニ氷河期の予兆ではないでしょうか。

もっとも最近のミニ氷河期は、 1645~1715年に発生した「マウンダー極小期」と呼ばれるものでこの間は太陽の黒点は極端に減少しました。イギリスのテムズ川が厚さ1.5メートルの氷で覆われました。
日本では江戸時代で飢饉が相次ぎ、徳川幕府が倒れたきっかけとも言われています。
また、ミニ氷河期の時代は食糧危機となって世界情勢が不安定となり、いたるところで争いが発生しています。

今度ほぼ確実にやってくるであろうミニ氷河期においても世界中で食糧難が深刻な状況となり、どこかで戦争が始まる危険性もあります。飢饉や病気で約20億人が死亡するであろうとも言われています。

もう既にミニ氷河期は始まっているかもしれないので、地球温暖化対策など悠長なことを言っている場合ではないでしょう。

過去の例をみても地球が温暖な時期よりも氷河期の時期のほうがはるかに悲惨な世界であったことは言うまでもありません。

特に日本は自給自足率が低いのでお金はあっても世界的な食糧不足で必要な食糧を輸入できないかもしれません。

政府は今のうちに食糧確保問題、省エネ問題(寒冷化するとエネルギー需要が高まる)等寒冷化対策を検討し始めるべきだと思います。
ミニ氷河期に突入するともはやこの先何十年も地球温暖化対策は不要になるでしょう。

日本の競走馬のトレセンは欧米に比べ何故労働災害が多いのか

ある競走馬のトレセンを所轄する労働基準監督署の所轄地域全体の労働災害(休業4日以上)の約1/4をそのトレセンが占めています。
災害発生状況は、落馬、突然馬に噛まれた、突然馬に蹴られたなど不意に馬に攻撃されるものが多くなっています。
そこは毎年あまりにも労働災害が多いのでもっと減らさないと労災保険料を上げるぞということで毎年本省から指導が入っていました。

しかし、欧米、特にヨーロッパの競走馬のトレセンは日本に比べて非常に労働災害が少ないです。

それは何故か。

原因は日本のトレセンの安全衛生管理体制に問題があるのではありません。
これは非常に奥深いものがあって、馬は非常に神経質で警戒心が強い動物です。
日頃から世話になっている厩務員と慣れ親しんでいたとしても少し気に入らないことがあれば突然厩務員の肩を噛んだりするのです。
ところが欧米ではこのような労働災害はほとんどないそうです。

これは私の推測ですが、日本とヨーロッパの違いは競走馬に対する歴史の違いからくるのだと思います。
ヨーロッパは馬の生産地で生まれたころから家族同然のように育てていくので馬は人間を敵ではなく家族であるという長年の意識がDNAとして引き継がれ、人間を信頼できる本能が備わっているのではないかと思います。

その点、日本は昔から動物は「畜生」という言葉が象徴しているように、あまり良いイメージでとらえていない歴史があり、その潜在意識としてのDNAが人間ではわからないが、馬は微妙に感じ取ってしまい、「ああ、やっぱり所詮僕は家畜なんだ」と思わせてしまうのではないか。

したがって、日本のトレセンの労働災害を減らすためには、まず、競走馬の生産地から改善していくことがひとつの方法ではないかと思います。
人間も三つ子の魂百までというように馬もこの世に生まれて初めて接する「人間」という動物に対してどのように感じ取っていくのかが勝負のような気がします。おそらく、人間に対してストレスがないほうが本番のレースでも実力を発揮できるのではないでしょうか。

これは人間の赤ちゃんにも言えることですね。
人間も小さいころから親が愛情たっぷりに育てることが人間形成の上で非常に大切なことだと思います。

私の推測は間違っているかもしれませんが、競馬業界はヨーロッパの馬への接し方を研究して成果が出れば、もっと労働災害が減り、かつ、より強い馬に育てることができるのではないでしょうか。

競走馬トレセンの調教助手の帽子は未だに牛革で脳を守れるの?

昔、競走馬の某トレーニングセンター(以下「トレセン」という)で調教助手がレース前の調教をしていたところ、落馬して脳挫傷により死亡した労災事故がありました。
トレセンでは伝統的に厩務員(馬の世話をする労働者)は脳を守るためにヘルメットの着用が義務付けられていますが、調教助手は騎手と同じように牛革の帽子を着用しています。
騎手は野球選手と同じように労働者ではないので、脳を保護する義務はありませんが、調教助手は調教師に雇用された労働者です。
したがって、調教師は調教助手が安全に働くことができるよう労働契約法上の安全配慮義務を負います。

労働安全衛生法では、高所作業における墜落危険防止対策として、高さ2メートル以上の作業場所には手すりを設けることを原則とし、その措置が困難な場合は安全帯を着用させなければならないとされています。
しかし、馬の鞍上の高さは2メートル未満なので適用除外となっており、鞍上に手すりの設置はできないし、調教助手に安全帯などを着用させると落馬したときに引きずられてかえって危険です。

また、高さが2メートル未満であっても最大積載量が5トン以上のトラックの荷の積卸作業など労働安全衛生規則で規定された特定の作業には墜落危険防止用の保護帽を着用させなければならないとされていますが、調教助手にはその規定がないため、たとえ帽子が牛革であっても法違反はありません。

しかし、当時、何らかの再発防止対策を立てないと同じような事故が発生した場合に再び重篤な災害になる可能性があるため、私は事業主である調教師に対して調教助手にも厩務員と同じように墜落危険防止用の保護帽を着用するよう指導しました。

ところが、その調教師曰く、この帽子は日本競馬会が指定したものであるため、勝手にヘルメットに替えるわけにはいかないので日本競馬会に指導してほしいと主張しました。

そこで、私は日本競馬会の責任者を呼び出して指導したところ、この帽子は当時某大学の名誉教授に依頼して1年間かけて完成したものなので、早急にヘルメットに替えるわけにはいかないと主張し、現在に至ってもまだ改善されていません。改善しない理由は、おそらく馬は非常にデリケートな動物なので、騎手の少しの変化にもナーバスになるとしたら、帽子1つをとっても調教助手も騎手と同じ牛革に統一したいという思いが強いのだろうと思います。

要するに競馬の世界は人命よりも馬の調教を優先する世界なのです。

タイムカード等による労働時間の把握義務は法制化すべき

「労働時間」といえば最近話題となっている「働き方改革」の一環として、政府が過重労働防止対策として36協定(時間外労働・休日労働に関する労使協定のことで労働基準法第36条から来る略称)の時間外労働の上限時間を罰則を持って定めることを決定したことは記憶に新しいと思います。

労働時間の問題は昔からいろいろとあって、何度も労働基準法の法改正や新たな通達が発出されたりしました。
ところが、最も基本的な部分が真剣に議論されておらず、未だに通達レベルにとどまり、法制化されていないことがあります。

それは「始業時刻、終業時刻の記録」です。

1か月間の時間外労働時間の記録については、労働基準法第108条で賃金台帳に記載しなければならないと規定されていますので、ある程度の労働時間の把握については義務付けられていることになってますが、日々の労働時間の把握までの規定はないため、サービス残業(正式には「賃金不払残業」といいますが世の中ではサービス残業の言葉のほうが知られているのであえてこの言葉を使います)を行わせていて賃金台帳の時間外労働時間の欄が空白又ゼロになっていたとしても、臨検監督に来た労働基準監督官に対して当社は時間外労働はさせておりませんと言われれば、タイムカードや残業申請書など労働時間を記録したものがない限り、サービス残業の証拠を見つけることは容易ではありません。

しかし、そのような場合でもその会社の労働者の監督署への通報または申告によってサービス残業の実態があることがわかっている場合は、監督官が任意に労働者が使用しているパソコンのファイルやメールのログを見て、その時刻が所定終業時刻を過ぎている場合は、事実上残業があったという証拠になるため、その証拠を会社側につきつけてザービス残業をさせていた事実を認めさせます。

従来から会社が行っている労働時間の管理方法については、矛盾する点が1つあります。

それは何か。

それは、「労働時間を把握しないほど法違反を免れる可能性が高まる」ということです。

かつて、ある会社が監督官に臨検監督された際、タイムカードの記録と残業手当に見合う残業時間の数値に乖離があるとして、不払賃金の差額を遡及して支払ったことがありましたが、その後、その会社は再発防止対策?として、タイムカードを廃止しました。いわゆる証拠隠滅作戦です。
これだと次回監督官が来ても残業の証拠がないのでサービス残業のし放題というわけです。

しかし、そのようなことをしてもその会社の労働者がパソコンを使っていれば、ログの記録から残業の実態がばれるし、抜き打ちで労働者から聞き取りをすることもあるので、ばれる可能性があります。
また、会社がそのような犯罪をあからさまに行うと労働者はあきれてその会社のために一生懸命働いて会社に貢献したいという気持ちはなくなり、労働者全体の士気が下がり、事業は間違いなく下り坂に向かうでしょう。

つまり、サービス残業の実態が存在していた場合、タイムカードなど始業時刻と終業時刻の記録がなければ、会社側が否認した場合に証拠を示すことが難しいということです。

タイムカードがなくても残業するときは残業申請書を上司に提出させるやり方を取っている会社もありますが(役所のほとんどがこの形式)、この場合の問題は、その部署の残業時間を減らしたいために上司から圧力がかかり、残業申請しづらい雰囲気にさせ、結果、サービス残業をさせている場合があるということです。したがって、この場合もタイムカードなど客観的に労働時間を把握するものがない限り、サービス残業時間を把握することは難しくなります。

私はかなり前からこの問題意識を持っていて、かつて本省の知り合いの課長補佐にタイムカード等を使った労働時間の客観的な記録を法制化しないと労働時間を把握しない会社ほど罪を免れることになるので早急に法制化をお願いしましたが、まだその話は時期尚早だと言われました。

しかし、あれから相当な年数が経っているのに未だに法制化されていません。労働基準法関係の法改正は、常に経営者側の反対が伴うものなので、この問題も何らかの圧力があって通達に留まっているのかもしれません。

高校数学の教科書の教え方は改善の余地あり

私の娘は今25才の社会人ですが、娘には厳しい受験競争の経験をさせたくなかったので無難に大学付属の私立高校に行かせました。
娘は推薦入学により大学の法学部を希望していました。
大学付属高校からその大学に推薦入学できるためには、希望の学部によってある一定の基準以上の成績でなければ推薦できないことになっていましたが、幸い娘の成績はその基準以上に達していたので親としては安心していました。

ところが、推薦入学とはいってもその大学は推薦入学受験者用の試験があり、法学部でもどういうわけか数学が必須となっていて、100点満点中最低でも50点程度は取らないと推薦してもらえないことになっていました。

娘は国語は得意でしたが数学が苦手で学校の試験前に一夜漬けで私が教えて試験の結果はある程度の点は取れるのですが、試験が終わるとすぐに解き方を忘れてしまうので、時間が経ってからテストで過去に同じ問題が出ても解けないという状況でした。

したがって、大学受験まで残り1か月くらいになってその大学の数学の推薦入学用の過去問を解かせたところ、25点くらいしか取れなかったので、これはやばいと思い、これからは数学を集中的に勉強するよう指示し、2週間後にもう1度過去問をやらせたところ、やはり25点くらいしか取れませんでした。

私はあせってこのままでは推薦入学は難しいと判断し、私が特訓して教えることにしました。

私は教科書に沿って教えていくうちにあるところで私でもわかりづらいところに遭遇して娘にわかりやすく教えるにはどのようにしたらいいのか少し悩みました。しかし、すぐに私は教科書の教え方がわかりづらくしているということに気づきました。
教科書は何故こんなにまわりくどい解き方を教えているのだろうと不思議に思いながら、もっと簡単でわかりやすい解き方はないだろうかと少し考えたところ、すぐに別の解法を思いつき、娘にその解き方を教えたところ、娘も理解し、同じような問題を解かせたところ、正解することができました。
このように私流の解き方を教えながら約2週間特訓したところ、過去問を25点から何とか50~60点くらいまで上げることができました。

私は当時高校の数学の教科書のレベルが昔に比べて落ちているように思いました。

数学の問題の解法は一般的に複数あるのが多いと思いますが、もっと効率的でわかりやすい解き方を教科書が教えるべきであり、学校も全て教科書どおりに教えるのではなく、こういう解き方もあるということを教えるべきだと思います。

1つの解き方しか教えなければ、柔軟な発想を養う訓練ができないのではないでしょうか。

古文、漢文は高校教育において時間をかける余裕や必要性があるのか

私は高校生のころ、古文、漢文は好きではありませんでした。
私は理系の大学に入学して理系の学問を学びたかったし、社会人になってからも古文、漢文の知識は必要がないと思っていました。

しかし、文系の科目に興味がないというわけではなく、高校時代から経済学にも興味があり、独学で学校の教科書と関係ない経済の本も読んでいました。
もともと私は好奇心が強い性格で、物理学、大脳生理学、経済学に非常に興味があり、大学でどれを選択するか非常に迷っていました。
しかし、最終的には物理を学ぶことにしました。最も興味があったのは、宇宙の構造や素粒子の構造であり、脳のしくみや世の中の経済のしくみではなかったからです。

しかし、私は好きな本ばかり読んでいて、あまり真剣に受験勉強をしていませんでした。それなのに大学受験を甘くみて比較的偏差値の高い大学ばかり受験し、いわゆる滑り止めの大学を受験しなかったために、受験した大学全て不合格となり浪人生活を送ることになりました。

浪人して時間を無駄にするからにはもっと高いレベルの大学に入るしかないと思い、駿河台予備校理Ⅰコースを受験したところ運よく合格し(当時は、早稲田には合格したが駿河台予備校は落ちたという話もありました)、東大向けの受験勉強をしました。

今でもそうですが旧帝国大学は理系でも受験科目に古典(古文、漢文)があり、文系でも数学があります。数学の知識やセンスについては経済学を学ぶには必須ですが、大学で文学や法律を学ぶのに必要性は低いです。
同じように理学部や工学部に行って、古文、漢文の知識やセンスは必要ありません。

私は、東大理科Ⅱ類と東工大Ⅰ類を併願してどちらに行くか迷いましたが、当時は将来ノーベル物理学賞を目指していて、どうしても物理学科に行きたかったので東大理科Ⅱ類から物理学科に入るよりも東工大Ⅰ類から物理学科に入る確率のほうが高いと思いました。
私は予備校の公開模試でも政治・経済が最も成績が良かったので(偏差値70くらい)、本当は東工大よりも東大のほうが受かる自信がありましたが、最終的には東工大Ⅰ類を受験して合格し、2年から運よく物理学科に入れました。

当時は1年生での試験の成績1,200点満点中、1,000点以上取らないと物理学科には入れないといううわさがあり、私は960点だったので、大事をとって応用物理を第1志望にしようかとも思いました。

しかし、周りの学生の聞き込み調査をしたところ、私よりも点数が高い人が大事をとって応用物理に回る人が比較的多いことを知りました。

そこで私は自信がないけどもイチかバチか物理を第1志望にしたところ、当時東工大でも最難関と言われた物理学科に滑り込むことができました(何か自慢話のようになってすみません)。

しかし、今ではもう東工大の入試科目にはありませんが、当時の東工大ではたしか漢文が必須科目になっていました。
理系の単科大学で何故漢文が入試科目になっているのか理解できませんでした。

東大向けの勉強をしていたので漢文は特に苦にはしていませんでしたが、実際に東工大に入ってみて、漢文の知識は全く必要ありませんでした。1年の教養科目の中にも漢文の知識を使うような授業はなかったと思います。私は教養科目では経済学、心理学、行動科学などを選択しました。

世の中にはいろいろな試験があります。その試験問題の内容は、ふつう、合格後の必要な知識などに関連した試験問題しか出題されません。
例えば、医師の国家試験に古文の問題は必要でしょうか。
それと同じように大学の理系の試験科目に古典は必要でしょうか。

よくこの古典の教育問題については、大人になってからの教養のために必要だとか、歴史や文学を学ぶのに必要だとか、日本古来の言語を伝承していくために必要だとか、外国人から日本の古い伝統の質問をされたときに必要だという意見があります。

確かに日本の伝統として古来の日本語である古典を今後も伝承していく必要はあると思います。

問題は、その教育にかける時間や大学入試問題としての重要性です。

古典については、昔、日本はこのような文を使っていたとか、昔、中国ではこのような文が日本に伝わった程度の基本的な内容で十分だと思います。
受験レベルの古典の知識を要求する必要性はないと思います。
古典にとても興味がわいて、もっと深く知りたいと思えば、大学の文学部などに行って勉強すればよいのです。
高校までは通常教えない学問である法律学や第2外国語のように。

学校教育で古典を教えないよりは教えたほうが将来の本人の教養のためにもよいというレベルの議論はもはや終わっています。

それは何故か。

小・中・高校の12年間に教育できる時間は限られています(しかも比較的難しい学問を吸収できる能力がある高校時代は3年間だけ)。
また、昔は「10年ひと昔」といわれていましたが今や業界によっては「1年ひと昔」の時代です。

今や世界は、第4次産業革命が始まってから、生き残りをかけてAI化、IoT化に国や民間が莫大な金額を投資してしのぎを削っています。
しかし、そのためのIT人材が不足しています。

平成28年6月10日に経済産業省が発表した「IT 人材の最新動向と将来推計に関する調査結果」によると、IT人材は現在約90万人、不足数は約17万人ですが、2020年には約37万人が不足し、2030年には約79万人が不足すると予測しています。
このIT人材不足は世界的な傾向を示しており、このままだと将来世界中のIT人材がますます不足していくことになります。

このため、欧米では、その対策として既に小学生のころからプログラム言語を義務教育として取り入れています。
日本もこれに追いつくためにようやく2020年から小学校にプログラム言語教育を正式な科目として取り入れることになりました。

また、2008年度に小学5,6年生を対象に外国語活動として小学校の英語教育が始まり、2011年度に「小学5年生から必修」となり、2020年度には、「小学3年生からの必修化」「小学5年生からの教科化」が完全実施されます。

しかし、今の日本の英語教育は事実上未だに受験英語になっており、英会話教育を重視していないため、大学を卒業してもほとんどの社会人は英会話ができません。その結果、日本は未だに国際ビジネスに大きな障害を持ったままの状態になっています。

今後、日本が国際社会から取り残されないようにするためには、高校教育においてもプログラミング言語や英会話の教育が必須となり、多くの時間をさいて教育する必要があります。

悠長に教養を深めるために高校で古典に多くの時間をさいている余裕はないはずです。まして、大学の理系に古典を必須の受験科目にするという感覚は時代錯誤です。
世界の時間が今よりもゆっくりと流れていた時代では、古典を教育する余裕はあったかもしれませんが、高校生に教育できる時間は限られている中で、日本の生き残りをかけていかなければならない教育科目はどんどん増えていきます。

また、たとえば社会に出て必要な知識や考え方を身に付けるために知っておくべき基本的な法律(刑法総論、労働基準法など)を高校で教えることのほうが古典に多くの時間をかけるよりも重要ではないかと思います。

これからの日本の教育も選択と集中が必要です。
いつまでも旧帝国大学の受験のようにいろいろな方面において優秀なオールラウンドな人材(かつてのトヨタの80点主義のような品質)を集めるスタンスはもうやめて、古典は不得意でも数学や物理はとびぬけて成績が良い学生を集める等スペシャリスト型の人材あるいは秀才型ではなく天才型の人材を育てなければ世界に後れをとるのは目に見えています。

日本は未だに特に突出した才能はないがオールラウンドで管理能力のある社員が管理職として求められ、出世する国です。
学生のころから将来官僚や大企業の役員などになりたいという出世意欲の強い人は、自然とゼネラリストを目指すことになるでしょう。
したがって、理系の大学を出て突出した才能があっても単なる優秀なスペシャリストとして評価されるだけでゼネラリストほどには評価されないことが多いでしょう。
一般的に欧米ではスペシャリストはゼネラリストと同程度に評価されます。日本ももっとスペシャリストの地位を正当に評価しないと国は衰退していくと思われます。

 

 

「時間」とはある物質が一定周期をもつ運動に対して相対的な運動を表す概念である

「時間」の概念は昔からいろいろな哲学者や科学者によって考えられてきましたがどれもしっくり納得のいく答えが見つかっていないように思います。
かつて時間の単位は天体の動き(地球の公転、自転)を基準としていましたが、現在は国際単位系(SI)における時間の単位は秒(second) であり、1秒はセシウム原子の放射周期の約90億倍と定義されています。
普段私たちが使っている「時間」は、毎朝の起床時刻、会社の始業、終業時刻、休憩時間、残業時間、電車に乗っている時間、試験の時間、テレビ番組が始まる時刻、集合時刻など「時間」を使わなければ生活できないほどの重要なツールとなっています。

人間社会の視点で見れば、たとえば会社、学校など複数の人間が一斉に集合して何かをしなければならないときに、対象となる全ての人が認識できる共通の目安となるものが必要です。そのときに太陽がどの位置にあるときに集まろうと決めても人それぞれが感じる太陽の高さがあまりに誤差が大きいため人の集まり具合はバラバラになります。
このとき何か一定の周期を持って誰もが容易にその周期の位置がわかるものがあれば、その周期が正確であればあるほど集合するばらつきは少なくなくなります。現在は時計がその役割を果たしています。
このように身近なところから「時間」というものを考えていけば「時間」とは何なのか、わかってきます。

つまり、「時間」とは物質(人間でもよい)が運動(人間では行動)する際の変化の状況を表すための尺度と定義づけることができます。

もう少し具体的に言うと、たとえば人間が100mの直線距離を全力で走る運動に対して、その間、一定周期を持つもの(たとえば時計)が何回転したのかということでその人の走る平均速度が客観的に把握できます。
つまり、「時間」とは、ある運動に対して、一定周期をもつものがどのくらいの数を回転(又は振動)するかという運動を目安として、そのある運動の状態を把握するものです。

たとえば、宇宙空間がからっぽで何もない状態であると仮定(実際、宇宙空間の真空は物理的に何もない状態ではないがここでは何もない仮想の空間とする)したとき、そこは物質が1つもないので変化が全くない状態になっています。
そこには「時間」という概念は存在しません。
仮にその「無」の状態がどのくらい続いているのかという概念があればその時間の概念が生まれるのではないかと思う人もいるかもしれませんが、その考えには矛盾があります。何故かと言うと、「無の状態がどのくらい続いているか」という考え自体が変化、つまり無でなくなることを想定しているからです。ずっと無のままであれば無の状態の時間という概念もないのです。
少しでも何らかの変化がない限り「時間」という概念は発生のしようがありません。
では手元に何か一定周期のものがあってその周期回数を計ることにより無の状態の時間を計れるのではないかと言う人もいるかもしれませんが、これもそのようなものがあること自体既に「無」ではなくなっているので仮定条件に反しています。

【結論】
「時間」とはある物質が、一定周期の運動をする物質に対して相対的にどのように運動するかという概念です。

 

 

 

不老長寿、若返り方法の発見による近未来社会の姿はどうなるのか

1 不老長寿物質の発見

かつて明治時代のころは人生50年の時代でしたが、今や日本の平均寿命は2016年の厚生労働省の統計によると女性87.14歳、男性80.98歳で、いずれも過去最高の年齢で、男女とも香港についで世界第2位の長寿国となっています。

人間は昔から死を恐れて、ずっと生きていたいとか、いつまでも若くいたい(特に女性)ことを願って不老不死や不老長寿の方法を研究したり、いつまでも若さを保つ研究をしてきました。
これは、栄養の向上や治療技術の発展等で寿命は年々寿命が延びたり、美容効果の技術などで見た目が年齢の割に若く見えたりする時代となりましたが、根本的かつ画期的に寿命を延ばす方法や若返る方法は見つかっていませんでした。

しかし、昨年、不老長寿の医学的方法、若返る医学的方法が発見され、注目されました。

人間の染色体の先端部に人間の寿命を決定づけているテロメアと呼ばれる構造体があり、細胞分裂するごとにテルメアが少しずつ失って短くなっていき、やがてヘイフリック限界と呼ばれる細胞分裂の停止が起きて死に至ります。これが老化の原因になっています。しかし、テルメアを長くする酵素「テルメアーゼ」が発見されました(2009年ノーベル賞)。このテルメアーゼを投与することによって、マウスの寿命が延び、またクリームを塗ることにより肌が若返ることが実証され、現在、既に商品化されています(大変、高額ですが。)。

また、体のエネルギー代謝にとって必須の物質であるNAD(ニコチンアミド・アデニンジヌクレオチド)の合成中間体であり、長寿遺伝子とも呼ばれているサーチュイン遺伝子を活性化させる「NMN」(ニコチンアミド・モノヌクレオチド)を人間でいえば60才に相当するマウスに1年間投与したところ、人間でいえば20才の肉体になりました。
これは以前テレビで放映されていましたが、見た目が毛がぼろぼろで動作も鈍く見るからに年老いたマウスが、NMN投与後は毛艶もよく動きが機敏な若々しいマウスに変身していたのを見て衝撃を受けました。

2 不老長寿社会の近未来予測

現在、人間の寿命の限界は125才(現在、公式記録で過去最高齢はフランス女性の122才)程度と言われていますが、テルメアーゼやNMNの発見によって今後不老長寿のバイオテクノロジーが進歩して人間は高齢になっても若さを保ち、寿命が相当延びることが予想されます。

そのような時代が間もなくやってくる可能性は大いにあります。
そのとき、社会はどのようになっているのでしょう。また、その状態が今後延々と続いた場合、どのような問題が起きるのでしょう。

まず、若返りにより健康寿命(日常的・継続的な医療・介護に依存しないで、自分の心身で生命維持し、自立した生活ができる生存期間のこと。)が延びます。現在、健康寿命は、男性約71才、女性約74才ですが、これが90才、100才と延びていくことになります。

そうなると、将来さらに進む少子化の中で今の年金制度では財政が確実に破綻しますので、老齢年金の支給年齢はさらに高齢化していくでしょう。
それに連動して定年65才(公務員は60才)制度では、高齢者は年金をもらえない期間が長くなり、生活できなくなるため、職業安定法の改正で定年の年齢が上がります(たとえば定年80才)。
つまり、高齢になっても健康なうちは年金を支給しないので働きなさいということです。

そうなると、会社はどうなるでしょう。通常、会社の規模が拡大しない限り、定年などの退職者を補充するために新規採用をしますが、定年が80才まで延びてしまうと、その分新規採用する人数がペースダウンします。また、定年の年齢が延長されるため、昇給や昇格等もゆるやかにしていく必要があるでしょう。

したがって、本来であれば、若者は就職難になることが予想されますが、少子化も進んでいきますので、人手不足の問題は緩和されていくでしょう。
ただし、同時にAIロボットによる人間代替化も進んでいくことが予想されますので、いずれ就職難の問題が浮上してくる可能性があります。

最も理想的な美人顔、イケメン顔とは

世の中には美人やイケメンは少数で、ほとんどの人が十人並みか不細工と言われる部類に入ると思います。それは、多少の主観的な好みがあって、ある人には不細工に見えても別の人には美人(またはイケメン)に見えることもあるかもしれません。
美人像(またはイケメン像)は、人によっても時代によっても国によっても違うので一概にこういう人が美人(またはイケメン)であるという定義は難しいのかもしれません。

ところが、もしかしたらこれが客観的かつ理想的な美人顔(イケメン顔)になるのかもしれないという定義を発見しました。
ただし、これを定義づけるためには、性別、年齢別、人種別(国別)、時代別に理想像を分ける必要があります。
何故なら、それぞれの分類においてその分類に適合した理想像が異なるからです。

人間は一般的に安定な状態を快く感じ、不安定な状態は快く感じないものです。
たとえば、顔のパーツが普通の人より非常に離れていたり、一部のパーツが非常に大きかったりすると普通の人の顔よりも少し不安定な姿に見えるため、人はあまり快く感じない傾向にあると思います。

人間は、人と接して生きていかなければならない社会的動物なので、「自分の外見は少なくとも人から不快に思われない程度に普通の外見でありたい。出来れば、他人が快く感じる顔(美人またはイケメン)でありたい。」と思う人が多いのではないでしょうか(もはやそのように思う年齢を超えている人は別ですが‥‥。)。

では人が快く感じる顔とはどんな顔なのでしょう。
これは、ずばり、いかに平均的な顔に近いか、つまり顔のパーツや輪郭などが整っていればいるほど人は安心し快く感じるものです。

以前、外国の指名手配中の多くの女性と男性の顔写真が公開されていて、それぞれの写真の顔は美人やイケメンはほとんどいませんでした。
ところが、男女別にそれぞれの写真の顔を全て重ね合わせた結果、そこに現われた合成写真の顔は女性は絶世の美人で男性は超イケメンになっていました。

もうお分かりのとおり、多くの不細工な顔写真を重ね合わせると顔の輪郭やパーツが平均化されて整った顔になるため、女性は美人になり、男性はイケメンになるというわけです。

したがって、最も理想的な美人顔とイケメン顔の基準として、年齢別、人種別(国別)、時代別にできるだけ多くの顔写真を重ねて合成した顔がその分類に適合した理想的な顔であると定義することが可能です。

整形美人が皆同じような顔立ちになってしまうのは、理想の顔を求めると皆平均的に整った顔になってしまうからです。

多くの十人並みの顔や不細工な顔の中に少数の美人がいるから、快く感じさせる整った顔の美人が希少価値として価値が高まり(いわゆる目の保養を含めて。芸能界のアイドル系などが該当。)、美人が目立つのであって、皆整形して同じような顔立ちの美人になってしまうと、美人という価値が下がり、個性のないつまらない社会になってしまうかもしれませんね。