人間の知識欲

知識欲は人間の本質的な本能です。たとえば、宇宙の構造や素粒子の構造が解明されたところで、興味のない人にとっては、それがわかったところで何なの?と思う人も多いでしょう。それらの研究に世界中で国の予算を使って研究して何の役に立つのだと不満に思う人もいるでしょう。
しかし、今までの科学の歴史を振り返ってみると当時は何の役にも立たない研究と思われていたものでも、そのしくみが発見された後は、いろいろな分野に応用されて技術的な進歩ひいては文明の進化が遂げられてきました。
当時は、世の中の何かに役立てようと思って研究することがなくても、その基礎的な研究結果を応用して科学技術が発展してきたと言っても過言ではないでしょう。
しかし、理学系の多くの研究は、基本的には最初から何かの役に立つことを目的として国の予算や大学の予算を使っているわけではなく、人間の本質的な知識欲を満たすことを目的としています。

そんなことに金を使うのをやめて直接国民に役にたつことに金を使うべきではないかと主張する人もいるかもしれません。

しかし、たとえば多くのノーベル物理学賞の内容を見てもその発見がその当時は直接何か世の中に役立つような内容はほとんどないと言っていいでしょう。
では、何故そんな直接世の中に役立ちそうもないような発見にノーベル賞が与えられるのでしょう?

それは、人間の不思議と思う本質的な知識に対する欲望を満たすことができるからです。

人間はただ生きていくためのみ価値を見出すべきものであるならば原始時代の動物に近い存在と同じになります(今の時代、生きていくことだけでもたいへんな時代にはなっているとは思いますが…)。

人間の知識欲というものは、ほかの本能的欲望(食欲、眠欲など)に比べて人によって様々です。この知識欲というものは本能に近いものなので、それが満たされるまでの間は留まることはないでしょう。
中には、ほとんどの人が関心がないことに関して、ある人だけが不思議に思って何故そうなっているのだろうと疑問に感じて研究し、新発見をすることがあります。
たとえば、ニュートンが発見した万有引力の法則は、リンゴが木から落ちるのを見て当時は誰も不思議に思う人はいませんでしたが、ひとりの天才が不思議に思ってくれたおかげで偉大な発見につながることになったわけです。

人間の知能、知識をもってしても長い間誰も気づかないあるいはなかなか解明できないことについて、誰かが発見あるいは解明したとしたら、それはやはり賞賛に値するものであり、人類として価値あるものになることでしょう。

これは、歴史的に見ると、昔は世の中の不思議な現象に対して科学的な知識がない時代はそれは神の仕業であり、神のみが知りうることであるとして神を崇めましたが、人間がそのしくみを発見していく中で神の仕業ではないことが分かってきたことから、その発見者に対して尊敬の念を抱くことになったのだと思います。

世の中の現象の全てを知りたいという欲望は人間である以上、永遠と続くことでしょう。

しかし、将来、世の中の全ての謎が解明されたとき、人間の未知の世界に対する知識欲はどうなるのでしょう。理学系(基礎的医学系等を含む)の学問が消滅し、工学系の学問のみが残っていろいろな発明をしていく世の中になるのでしょうか。
そのときは、それまで数式化できない分野の哲学系などについて数式化する試みがあるかもしれません。また、全ての謎を知り尽くしたと思ってもそれは気づいていないだけであってまだ知りえていない謎もあるのかもしれません。
また、従来、定説となっていた理論でも実はそれは間違っていたと主張する学者が出てくる可能性もあります。

いずれにしても人間の知識欲というものはいつの時代も留まることはないのかもしれません。